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賞とは。ーADC展

ADC展に行ってきた。
“日本の”(重要)アートディレクション、応募作品展である。

賞を獲得していた作品・プロジェクトには、どれもがそのように至った経緯が書置きのように、大変見辛い配置で展示してあった。(腰をかがめないと読めない位置に、なぜ配置したのか、についてはそこの主に聞きたいところである)デザインとは、を問い直すような機会になったので記す。

制作物であればほぼ全てに過程や、意図が存在している。何がどういう経緯、思考で形になったかということは、こういう機会でないとなかなか知ることができない。
中には何も書置きのない、ただのグラフィックがあり。(これにも過程があり意図があったはず...)さてこれは、と思う間もなく通り過ぎてみれば、価値を感じる隙間は与えられなかった。そういった出来栄えだった。
ノミネート作品...。飾られているだけ?...
一旦は黙殺するとして。

とても素晴らしい書き置きがあった作品。

あの日、あの時、私たちは失ったばかりではない。
神戸新聞広告『SINCE1995』
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000031739.html
以下、コメントより引用

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“「広告は、大量生産を可能にする。」ディヴッド·オグルビーの言葉だ。これは、広告や広告表現という仕事を卑下したものではない。社会における確固たる役割があるということ、つまり物質的に生活を豊かにするだけでなく、さまざまな雇用や産業を創り出す実業であることを語ったものだ。広告表現は、これ以上でもこれ以下でもない。自分の仕事は何のためにあるのか、という内なる問いに、この言葉は過不足なく答えてくれた...。

さて、「ソーシャル」である。広告クリエーターのロから「ソーシャル」と発せられると、つい眉に唾をつけてしまうのは、オグルビーの薬が効きすぎているからだろうか。どうしても無邪気にとりかかれない。1995年の阪神·淡路大震災を振り返る、神戸新聞の特別企画。この仕事のはじまりも、そうだった。自分は震災の当事者ではない。資格はあるのか。いや、当事者であることが枷となることもある。問題は、何を表現するかだ。と、気持ちを奮い立たせる。23年前の悲劇を風化させない? しかし、それは悲しみを掘り起こすことにならないか。そんな資格があるのか。いつもの堂々巡りの中、ひとつの風景が浮かんできた。
それは数年前ロケハン中に見た、ある地方都市の小学校の校舎。外壁に太い鉄骨の梁がX状に貼りめぐらされていた。校舎の中や校庭、遊具や子ども達は、自分の子どもの頃と変わらず、懐かしくも長閑かなまま。なのに鉄骨だ
けが違った、教室の中にも窓越しに太い影を落としていた。異様だったけれども、その異様さは、なんとしてでも子どもたちを守る、という信念を静かに秘めていた。子ども達にとっては、これが日常、あたり前の風景なのだ。この新しい日常、新しい風景の中で、新しい人は育ち大人になる。災害への備えは、私たちよりも、標準装備され、バージョンアップされていくことだろう。これは、希望ではないか。

この国は阪神·淡路大震災の後、いくつもの大災害に見舞われたその度に対策の不備や遅々として進まない興を目の当たりにした。そうした脱力感、無力感の中の小さな希望。「あの日、あの時·私たちは失ったばかりではない」この23年という時間の中で、私たちが不器用な手つきながらも積み上げてきたことは確かにある。その、ひとつひとつを誇りを持って振り返り、これからも前に進んでいくエネルギーに変換していく。それを信じて表現した紙面の上下で、現在と大震災当時を対比させた。上部は23年の時を経て「人々が生みだした数々を写真に収め、その名称と説明文を右に添えた。下部は、「大震災の衝撃」と「技術や対策の不在を黒の矩形で表現し、タグラインと「SINCE 1995」を左に添えた。コピーはなるべく感情を排したつもりだ。協賛企業を募り、各企業広告と本原稿を合わせて、神戸新聞の別刷特集として発行された。

平山浩司·小野恵央”

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問題提起、解決、販促、風刺。伝えることがあるから広告であり、クリエイティブが遺憾無く発揮される。アートディレクションとは、クリエイティブディレクションとは、その世界を伝える瞬間的な引っかかりであり、伝達濃度の高い表現手段だと思う。
『SINCE1995』が素晴らしいと思った理由は、ストラクチャードカオスと言うと、もはや陳腐なブランディングワードみたいな感じもしてしまうかもしれないが、そういうことである。
前述した、?が瞬間的に浮かんだまま何もどうにもならないグラフィック、そういう種類のものと並べられた不思議な展示空間、ディレクションできていないコメントの表示位置、賞レース感の強い作品、
この展示に行って疑問は浮かぶ。決して批判がしたいわけではない。
瞬間的な引っかかりはマイナスなディレクション能力、伝達濃度は低い。これが”日本の”、アートディレクション代表展だったのか?

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