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[注意:今回の投稿はめちゃ難しいです]

たまには、全開に僕らしいややこしい記事を
投稿しようと思います。

興味のある方だけ読んでください!

で、この話が分かる方ぜひお話ししましょう✨

質問がある方はコメントくださいね



僕たちは、大人になるにつれ
自由な考えや発想から離れ
こうでなければならない
こうあるべき
そんなものに縛られていきます。

それは、この世界を生きるために
必要なことだし仕方がないこと。

細かいところを見ていくと本当に色々あるけど
僕はその中の一つに「文字」を覚える
という事が大きなこととして
あると思っています。


5歳ぐらいの子どもが
左右反転した文字を書くことは
そう珍しいことではないと思うのですが

3歳ぐらいの子どもには
タブレットで動画を見るとき
上下反転していても気にせず見ることが
できたりする子もいます。

これはつまり、文字に限らず
左右だけではなく、上下の認知全般も
生まれつき固定化されているわけではない
ということ。


で、ですね。
これを「絵」と「文字」の違いを考えて
具体化してみると
例えば、キリンを絵に描くとき。

キリンの首が右にあろうが左にあろうが
「キリン」なんですよ。
3次元空間のものを
2次元平面に描いた時
そこには左右が固定化されることは
ないわけです。

3次元の何かを2次元に表現してる
「絵」と捉える限りにおいて
左右が反転しても
「キリン」は「キリン」であると
認知することは自然な発想ですよね。


でも


「文字」は違うんですよね。
左右反転していたらダメなんです。

それは僕たちが生きる社会では
認められないことで
「文字」という「お約束」を強制され
内面化させられることによって
多様な解釈の可能性を一つの
「意味」へと固定化していく
その結果、文字が「読める」
ようになるではないでしょうか。

「発達」するということは
レールから外れる可能性
つまり無限の創造性を少しづつ摘み取っていく
プロセスでもあるのです。


そして、僕たち大人には
これと逆の事が起こっています。

僕たち大人は、無意識のうちに
内面化された「視点」を
使い分けて方向を識別しているというもので
鏡に映った自分を想像するとき
鏡の像をそのまま知覚するのではなく
鏡の像の視点と自分自身の視点を
「神の視点」から比較してしまい
左右の不一致を「発見」してしまうのです。


[本当は、鏡の映像は反転なんてしていないわけです]


鏡に映った自分を見たとき
右手は鏡に向かって右側にあり
鏡の右側に映っているのですから
何も反転していません。

では、なぜ反転していると
錯覚するのかというと
「鏡の裏に回った自分」を思い浮かべ
それと鏡に映った自分を比べた結果
「左右が反転している」と判断しているのです。

しかし、文字の場合はそうなりません。
「文字」を鏡に移したとき
文字は「左右反転」して見えます。

これはつまり
鏡に映った自分自身を見るときは
「鏡に映った自分から見た視点」
を無意識に行なっており
文字を見るときは
自分自身の視点から
左右を判断しているということです。

文字から見た視点を考え
左右を判断していないということ。

自分自身を見るとき
この神の視点、鏡像の視点をとるかどうかは
自由にコントロールができます。

そして、ある研究では
だいたい3〜4割ぐらいの人が
自分自身の鏡映反転を認識しないそうです。

しかし、そういう人たちも
文字の鏡映反転は必ず認識するそうです。

鏡に映った文字を知覚したり
憶えている文字を思い出すプロセスは
コントロールのきかない
自動的に起こってしまうプロセスだからです。


このように、僕たちは自分自身のことでさえも
コントロールできないことは
とてつもなく多いのです。
でも、今回の話のようなことを
コントロールできないことで
自己否定する人って・・・
いますか?
おそらくいませんよね。

意識の外にあることは別にいいのに
自分の意識の中にあることには
自己否定してしまう。

例えば

怒りたくないのに怒ってしまった。
とか
ダイエット中で食べたらダメなのに
食べてしまった。

とか。


これはつまり
コントロールできていないことに
自己否定しているのではなく
怒ることはダメなこと
食べることはダメなこと
と、思っているから
自己否定しているにすぎません。

もっと言うと、自己否定するから
心が重くなるのではありません。

自己否定を否定するからダメなわけです。

でも、ほとんどの人は
自己否定を否定していることにも
気づいていない。

物事の本質を知れば
実は悩まなくていいことというのはとても多い。

自己否定をしてしまう。
自分を蔑ろにしてしまう。


そういう人は
こうでなければならない
こうあるべき
を、赦すことから
はじめてみるのもいいと思います。

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