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2023/06/17 BGM: Pet Shop Boys - Go West

今日、ランチタイムにぼくはスティーブ・シルバーマンの動画『忘れられていた自閉症の歴史』を見直してみた。そして、また泣いてしまった……ぼくは1975年に生まれ、したがって多感な十代を過ごした時期はまだまだ自閉症/発達障害という言葉/概念が人口に膾炙したものではなかった。ゆえにぼくは生きづらい時期を過ごさねばならなかった。周囲から変人扱いされて、ぼく自身も「なんでこんな扱いを受けなければならないんだ」「おかしいのはみんなの方だ」と憎しみというか逆恨みを煮えたぎらせて……それは大学に入ってからも、就職してからも続いたのだった。33歳の時、女友だちの言葉からぼくは自分が発達障害者である可能性に思い至り、そして調べてもらってそう判明した。すぐさま会社にそのことを訴えて、医師が書いた書類を見てほしいと訴えたけれど上司はぜんぜん関わり合いになってくれなかった……それが今から10年ほど前のことだったか。10年だ。時代は変わる。今、メディアやネットで発達障害のことを聞かない日はないと言っても過言ではない。今ではぼくの会社もぼくの発達障害について真剣に耳を傾けてくれる。だから希望を失うべきではないのだな、と改めて思う。「生キ残レ少年少女」(野坂昭如)。

前にも書いたが、ぼくはそのスティーブ・シルバーマンがその自閉症/発達障害について記した労作『自閉症の世界』を1度だけではあるが読んだことがある。その後ネットで良識的な、信頼の置ける読者たちがこの本のバイアスに満ちた誤訳(もっと言えば「改竄」「改悪」かな?)を検証しているのを知り、ならばここはいっちょ原著で読んでやろうじゃないかと思ってペーパーバック『Neurotribes』を買い求めて読み始めたのだった。もっとも、その原著の読書は見事に挫折してしまって……なので「精読」「読み比べ」した上であれこれ語れる身ではないことを断った上で書くけれど、でも仮にこの『自閉症の世界』が監修者を迎えて「完訳」されたとしたらこの国の自閉症/発達障害を取り巻く環境はぼくが思うに「確実に」「絶対に」変わる。そうぼくは確信する。賭けてもいい。この本はそれだけの潜在能力を秘めたすばらしい、すごい1冊だ。ああ、ぼくにこの本を読みこなせる能力、そして的確な日本語に訳せる能力があったら……でも、そんなものはない。なのでぼくは今日も虚心坦懐に英語力を磨くのだった。

『自閉症の世界』や、あるいはぼくが自分自身が自閉症/発達障害者ではないかと思い至ったきっかけであるオリヴァー・サックス『火星の人類学者』(の中のテンプル・グランディンのエピソード)を読んで、ぼくは自分自身の自閉症を自分なりに虚心に見つめ直したことを思い出す。どうあがいたってぼくは定型発達者というか「普通」「ノーマル」にはなれない。あるいはそうなるべきではない(仮にぼくが薬を飲んで定型発達者になれたとしても、それが直ちにこの世界の発達障害者が抱える生きづらさを解決・解消することを意味するわけではない)。こうしたことにぼくは妙に「敬虔」「生真面目」になってしまうようで、ぼくは「発達障害者として生まれたことに、ぼくなりに意味を見い出せたら」「意味はあるはずだ。ぼくはこの人生を通して、無理かもしれないけれど探せるだけ探してみよう」と思うようになった。日頃ちゃらんぽらんに無軌道に生きているけれど、こういうことだけは「求道」「探究」の精神を失わずに生きている……つもりなのだった。

仕事が終わり、グループホームに戻りその『自閉症の世界』を探し……でも、さっそく読もうと思っても昼の仕事で疲れたせいか落ち着いて読めなかった。10年、ということで言えばぼくは10年前のことを思い出す。まだ「発達障害を考えるミーティング」にも参加しておらず、友だちとの出会いもなくこの宍粟市で孤独に酒に溺れていた日々のことだ。その頃、10年後なんて「ありえない」と思っていた。ぼくの人生は「終わった」のだし、ぼくはまぎれもない「敗残者」なのだと信じ込んでいた……だけどその後、いろいろあって今に至る。ふと、仮に「今から」10年後を思い描くことはできないだろうかと考えてみる。明日のことさえぼくにはわからないけれど、でも10年後について、ぼくはこんなことを思い描く。もし、ぼくの英語力がいくばくか向上していて、もっとスラスラ英語を読みこなせるようになっていたら。なら、くだんの『自閉症の世界』のペーパーバックをぼくなりに「精読」することだってあながち不可能というわけでもないのだろう。できるかな?

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