本当の意味で「歴史を読む」ということ

今年に入ってから、急に幕末史にハマっている私。

もともと高校時代は地理選択だったこともあり、歴史には興味がないどころか苦手意識をもって過ごしてきたにも関わらず、急に幕末史に詳しくなったきっかけは勝海舟の談話集を読んだことがきっかけでした。

勝海舟の名言である
行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。
が好きで、自分の座右の銘にもしているのですが、この言葉がどんな文脈で使われたものなのか、どんな経験が彼にこの一言を言わせたのか。

その背景が知りたくて手に取った「氷川清話」が、私の幕末史を辿る旅のはじまりでした。

そして司馬遼太郎作品を中心に幕末史を辿る中で感じたのは、新しいことを考えるには最先端の情報を追うよりも、過去の歴史を丁寧に理解する方が、回り道に見えて実は近道なのかもしれない、ということ。

「歴史は繰り返す」と言いますが、歴史上の偉人たちが何を目指してどんな行動をとったのかを知ることは、普遍的な人間の営みを知ることだと思ったのです。

例えば、なぜ「無血開城」ができたのか。
思想が入り乱れる時勢の中で、日本という国はどう動いていったのか。

ひとつの物語としてももちろん楽しめるけれど、そのまま今の国政や企業の動きに当てはめて考えてみると、過去の偉人たちの息づかいが現代に蘇るような感覚に陥ります。

そんなことを考えていた時、ちょうど小林秀雄の「学生との対話」の中で、彼の生涯をかけた研究対象である本居宣長の解説の中で、こんなことを言っていました。

歴史を知るというのは、古えの手ぶり口ぶりが、見えたり聞えたりするような、想像上の経験をいうのです。(中略) 歴史を知るというのは、みな現在のことです。現在の諸君のことです。」

これを読んだとき、本当に「歴史を学ぶ」ということは、事象として「知る」だけではなく、そこからさらに「我がこと」として歴史を体感することなのだ、と気づいたのです。

どんなに時代が移り変わっていっても、変わらない人間の本質というものがあります。

普遍であり、不変である。
そんな真理を体得することこそが、私たちが不動の軸を獲得するために欠かせないものなのだと思います。

私は和歌や古典文学も好きなのですが、自然を愛でる心や人の心に去来する喜びや悲しみが1000年以上の時を超えて私たちの「今」に重なる時、そこに真実を見るような気がするのです。

これは、古典や歴史に限ったことではありません。

毎日たくさんのビジネス書やWeb記事が出て情報が氾濫する中で、他人事として「知る」という態度から、我がこととして「理解する」を意識するだけで、ひとつひとつの言葉や行間から吸収できるものは大きく変わるはずです。

司馬遼太郎が長岡藩士・河井継之助の一生を書いた「」の中で、
「あらゆる矛盾に即決対処するための、自分だけの"原則"をつくることが、俺の学問の道だ
という話がでてきます。

これはきっと「論者の道」と「実行家の道」で意見が異なる価値観だとは思いますが、実行家にとっての学問とは、自らの判断軸を肉付けしたり削ぎ落としたりするものであるはずです。

本当の意味で「読む」、そして「学ぶ」とは何か。

読書や学問が好きだからこそ、娯楽としてではなく本質的な価値を捉えるために情報を取捨選択していきたいと思っています。

(Photo by tomoko morishige

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最所あさみ

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