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闘う、ということ

「不当逮捕」「サイバー犯罪」「実際に起きた大事件」。ポスターやあらすじに並ぶものものしい単語から、社会派の重たい作品なのだろうと思っていた映画「Winny」。

ノンフィクションの裁判ものなのでシリアスな場面も多かったけれど、鑑賞後の気分はまったく重苦しくなく、むしろ晴れやかさすらあった。それはきっとこの作品が善悪や正義といった作り手側の価値観を押し付けるのではなく、主人公である金子勇さんの生き方を真摯に描くことで滲み出る「何か」に委ねていたからなのではないかと思う。

今から約20年前。IT業界はまだ黎明期で、一般の人たちにとってパソコンやインターネットは「よくわからないもの」だった。今でこそ技術者ではない私のような人間でも「P2P」の意味や仕組みをある程度理解しているけれど、当時はよくわからない、つまり怪しいものだと見做されていただろうことは容易に想像がつく。

さらに、サービスの利用者と提供者の立場の違いについても、まだよく理解されていなかった。近年でもFacebookをはじめとするテック企業がどこまでフェイクニュースや陰謀論の流布に責任を持つべきかが議論となったが、当時はそもそも議論にすらならなかったのだろう。よくわからないものに対して、人は本能的に恐怖を感じる。ゆえに、議論ではなく「拒否」の姿勢を示してしまう。

司法もメディアも民意も、「よくわからない」恐怖からわかりやすい敵を求めていた。その結果、今回のテーマとなった事件が起きた。

今ではYouTubeやInstagram、TikTokに著作権を侵害するコンテンツがアップロードされただけで開発者や企業が逮捕されることはないと一般の人でも理解できる。もちろん悪質なコンテンツが放置されないように対策を講じる責任はあるし、悪質な利用者をそのままにし続ければ罪に問われることもあるだろう。

けれど、自分の作ったものを悪用する人がいたというだけで逮捕されるなんて、今の価値観から見ればおかしいことがわかる。

この「おかしい」という感覚を信じて、自分のためではなく後に続く開発者のために闘ったのが、主人公である金子勇さんと、壇俊光さんをはじめとする弁護団だった。

「もしこの包丁が殺人に使われたとして、包丁をつくった職人は罪に問われるのか?」

序盤に提示されるこの問いによって、テクノロジーに明るくない人にも争点がシンプルに提示される。そして素直で疑いを知らない主人公が警察の誘導によって不利な立場に追い込まれていく姿、そんな状況を打破するために奔走する弁護団、検察との緊迫した駆け引き。

権力に対抗する話でありながらも、この物語が単なる「反権力」や「腐敗した権力の告発」に収まらないのは、主人公の金子さんが自分のための勝利ではなく、ただ一心に「社会のためになること」を考えてきた姿勢が描かれているからだろう。警察に誘導されて不利な書類にサインをしてしまったのも、自分のことよりも「事件解決のために協力する」意識が強かったからだ。

しかも、ある意味「嵌められた」状況を知っても、彼は警察に対して怒ったり恨んだりしない。担当弁護士の檀さんに「そんな大事なこと、なんでもっと早く言ってくれなかったんですか!」と詰められても、えへへと笑って受け流してしまう。

金子さんは劇中でも「掴みどころのない人」と言及されており、裁判中でも急にアイデアを思いついた!と嬉々としてプログラミングをはじめるなど、常人には理解しがたいキャラクターだ。けれど彼のプログラミングへの情熱と未来を信じる純粋な気持ちが、観客の心も溶かしていく。

状況だけ見れば、もっと怒りを見せる場面があってもおかしくないはずだ。それなのに、彼はただ一生懸命に自分の立場を説明し、裁判が終わったらこんなものを作りたいんだと目を輝かせながら話す。

そんな姿を見ながら私は、「こんな闘い方もあるのだ」と目から鱗が落ちる思いだった。

今は、いたるところで怒りが語られている時代だ。もちろんその怒りが世の中を変える原動力にもなるし、より多くの人の目に止まるきっかけになることもある。

よって「闘う」、しかも相手が大きなものとなると、怒りによって動かそうとするケースが多いような気がする。

一方で、怒りのパワーが強すぎることによってこじれてしまったり、人が離れていってしまうこともある。

だからこそ、金子さんのように怒りではなく希望を原動力にして「闘う」という選択肢も重要なのだと思う。

もちろん彼もずっと前向きで明るくいつづけたわけではない。苦悩したり葛藤したりするシーンは、見ている側も心が引き裂かれるようだった。

もしも日本ではなくアメリカに生まれていれば。時代がもう少し早ければ、もしくは遅ければ。悪質なコンテンツを排除する機能を実装する時間をもらえていれば。

あらゆる「たられば」と不条理への恨みも、きっと心に去来したはずだ。けれども彼はそんな思いに囚われることなく、むしろバディである檀弁護士を励ましたりもしていた。

その根底にあったのはきっとプログラミングへの純粋な情熱で、技術について語る際に見せる子どものようなキラキラした表情が、彼の強さを物語っていたように思う。

「闘い」とは、ただ真正面からぶつかりあうばかりではない。自分の本当に大切にしたいものを守るためには、今現在の怒りではなく未来の希望にフォーカスした方がよいこともある。

物語は必ずしもハッピーエンドとは言えない終わり方だったかもしれないけれど、不思議と鑑賞後の気分は爽やかで、映画館を出て見上げた青空が一段と明るく見えた。

それはきっと、映画で描かれていた金子勇という人間の生き方そのものが、青空のように清々しく美しいものだったからなのだろう。


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