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精神修養は己のためのもの

人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである──。

フランクル『夜と霧』に出てくる有名な一節だ。
私たちは生きることによって何かを得ようとするのではなく、自分が生きることでどんな価値を創造できるのか、自分の役割とは何かを認識しなければならないという彼の考え方は、今なお多くの人に影響を与えている。

私もこれまで何度か読んではこの一節と出会いなおしてきた。

しかし、何度読んでも多くの人が人生の書に挙げるほどの魅力を、この本から感じられずにいた。
もともと東洋的・封建的な考え方の中で育ったからか、自分の欲求よりも自分が求められている役割をまっとうする美学のようなものがすでに自分の中にあったからかもしれない。

何度読んでも皆と同じように感動できない自分は頭が悪いのかもしれない。
『夜と霧』は、私にとってコンプレックスすら抱かせる作品だった。

そんな『夜と霧』の解説本を100分de名著で見つけたとき、すぐに手に取ったのは昔からのコンプレックスを解消したい思いもどこかにあったのかもしれない。
原作を読んでもいまいちピンとこなかった、理解できなかった本を別の角度から読み直すことができるのも100分de名著シリーズの魅力だと思う。

そして今回改めて読み直して一番印象的だったのは、精神の気高さが結果的に生き延びる確率の高さにつながっていた、という話だった。

殺伐とした毎日の中でも祈ることを忘れず、感謝することを忘れないような精神の持ち主は、生きのびることができる確率も高かったのです。
(中略)
フランクルは言います。このような人々はもともと「精神的に高い生活をしていた感受性の豊かな人間」であり、そのために彼らは、収容所の苦悩に満ちた生活によっても、精神がさほど破壊されなかったのではないか、と。

そして原著からこんな一節が引用されていた。

なぜならば彼らに取っては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。
かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。

この箇所を読んだとき、なぜよい人間であろうと精神修養することが昔から善とされてきたのかという疑問への答えに出会ったような気がした。

人間社会には、品や格といった概念がある。

日本にもまだ身分制度が残っていた頃、武家には武家の、公家には公家の品格とそれを支える矜持があった。

明治維新の動乱期に幕府側についた武士たちの子女たちが罪人として投獄された際、最後まで他者を気遣いながら居住まいを崩さず暮らしたのは上位の武士の妻子だったというエピソードは、立場が品を作るということをよく表している。

では、現代でもそうした品格や矜持を持って生きることに意味はあるのだろうか。

たとえ下品と言われようとも、欲しいものをすべて手に入れ、自分の思うままに生きる方がこの資本主義社会では正しい生き方のようにも思える。

しかし前述の引用箇所を読んで、精神を気高く保つことは綺麗事ではなく回り回って自分の身を守る営みだと気づいた。

苦境に立たされたとき、もういいやと諦めてしまわずに自我と希望を保ち続けること。

それができるのは、日々の修養によって自分の心を自分で満たす術を心得た人間だけなのだ。

私たちが無意識に品のある人に惹かれるのは、そこに野生性とは別の生命力を感じるからなのかもしれない。
それは『人間』として生きる力である。

平凡な人生の中で、フランクル体験した収容所の悲惨な環境に直面することはほとんどないだろう。
ただ日々の暮らしの中で自分を気高く保とうとすること、どんな状況でも他者を慮ろうとすることこそが、何かあったときに私たちの生を支える力になるのである。

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