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景義先生ともぬけの殻

 垣根の病葉わくらばには、脱皮の瞬間をさえ見なかったはずの蝉の抜け殻がおびただしい程にしがみついている。さいわい抜け道の辺りは私以外の子供、あるいは、どうしようもない大人が度々たびたび通り、恐らくは足元に落ち砕け、土に紛れたのであろう。セロファン色のそれらはすでに消えている。虫が苦手な私はそれでも恐々と葉の間を確認しながら垣根を越えると、あろうことか景義先生は抜け殻の選別をしているようだった。
「いぃぃ……」
「おや、いらっしゃい」
私の様子を見てすぐに察したのか、抜け殻を集めたザルを避かしてタオルをかけた景義先生は、手を洗ってくるね、と奥へ入っていった。庭の大きな木には、よく見ると脱皮を済ませ大声で鳴く蝉がいくつも張り付いている。

 夏の大汗と虫嫌いの冷や汗とが混じる。ハンカチで額を拭い続け縁側に腰掛けると、部屋の内側から涼しい風が吹いていた。やや年季の入った扇風機の前には氷の塊が金ダライにずんと置いてある。タライに波打つ水の量からして、ずいぶん長く置かれていたのだろう。あるいは二度三度新しい氷と換えたが、この暑さであっという間に溶けたのかもしれない。ちりぃん、と上品な鋳物の風鈴の音と合わせると非常に情緒的な光景である。

 虫さえいなければ、の話だが、夏の風景は嫌いではない。せめて蝉もあれほど多くなければいいのだが。
「麦茶、おかわりがあるからね」
冷やしていたのであろうか。曇った冷たいグラスと、氷と大きなピッチャーを盆に乗せて景義先生が戻ってきた。
「ありがとうございます。先生、なんだって抜け殻なんかを」
かろかろ、と氷をグラスに落としながら景義先生が笑う。
「特に意味なんてないけれど、あんまりたくさんそこにあったものだから、種類ごとに分けようと思って」
「よしたほうがいいですよ。整頓したところで、どうせまとめて捨てるだけでしょう」
「それはそうなのだけど」
木から蝉がブンと飛んでいく。空には絵に描いたような入道雲が堂々と佇んでいる。

「時々ね、人生一周め、みたいな蝉がいるの」
「セミせいですね」
「ふふ、それで、そういう蝉が、あんまりにも申し訳なさそうに鳴くのが、可愛くてね」
ほら、と耳に手を当てながら景義先生が言う。よくよく聞いてみると、確かにさまざまな蝉の中に一匹か、ミーン、ミンミ、ミィ、とすぐに鳴くのをやめるものがいた。
「そりゃあ、蝉なんぞに生まれたら、私だってそうなります。虫は全部そうです。とっとと生まれ変わって、ヒトになりたいというのに、あれは何年も土にいて、這い出て、それからさらにこの暑い中で一ヶ月も生きるでしょう。地獄だ」
「ヒトに生まれる事が罰である、という考えもあるよ」
ボタリ、と蝉が木から落ちた。喚きながらクルクルとしばらく回り、静かになった。蝉は裏側が粉吹いているのもぞっとする。

 部屋に上がり、溶けてつるつると向こうの景色を透かす氷を何とはなしに撫でていると、すっかり蝉を分けた景義先生が再び台所へ手を洗いにいった。落ちた蝉を遠目に見ると未だ死んでいないようで、時折思い出したようにジジジと蠢いていた。
「蝉の半分は羽化に失敗するそうだよ。真っ黒になって、死んでしまうの」
背後に立つ景義先生が、しっとりと汗ばんだ腕を首に絡ませる。

「暑くないですか」
「暑いけれど、これからもっとするのでしょう?」
ワイシャツのボタンを一つ一つ外す手に抵抗することもなく身を預ける。さっきまで蝉の抜け殻を触っていた手か。そう思うと少し複雑な気分にはなったが、この先の快楽を知っているからこの身体はたちが悪い。氷越しの涼風が肌を撫でた。
「よぅくお茶を飲んで、楽しまなくてはね」
景義先生はグラスの中身を口に含むと、私にそれを飲ませた。体温と唾液がとろりと口の中に流れ込み、唇の端から流れる雫が首を伝い汗に混じる。小さな氷の塊を取り合うように舌先で口の中をまさぐり、溶かしているうちに互いの背中を掻き抱き、滴るほどに汗をかいていた。景義先生の体温は普段よりも熱く、内臓なかはとろけていた。営み。どう足掻いても雄同士でのそれは子を成すことはない。今のところは。景義先生のあなはずぶずぶと深く沈んでいく私の、吐精するのを飲み干すように締め付け、うねっている。

 事が済み、繋がったまま、ぜえはあ、とほとんど裸で、二人で畳の上へ落ちていると、景義先生の背中に妙な線が入っていることに気付く。その線へ触れると、めり、じくじくじく、とゆっくり開いていき、生白い肌が現れた。汗よりも粘性がある体液に濡れ、どくん、どくん、と脈打つように殻を脱いでいく。あの気味の悪いはねあしも無い、柔らかく美しいヒトの身体が羽化するのを眺めていた。

 3時間ほどが経っただろうか。腰までは順調に進んでいたはずのそれは段々と速度を緩め、そのうちに何の変化もなくなった。動かなくなった景義先生の身体はみるみるうちに渇き、萎びていく。羽化に失敗したのだ。そのことに気付き、しかし特に大きく感情が動くこともなく、ついでに自分の身体はとうに呼吸を止めていた。私には背中を破る力すらなかったらしい。考えてみれば、羽化と交尾の順番が逆ではないか。この二匹の阿呆にくらべれば、あの茶色に干からびた殻や死んだ蝉の方が偉いように思えた。二つの死骸が部屋の中に転がる。さほど遠くないところから、あら、と景義先生の声が聞こえた。

「蝉って時々、交尾したまま死んでいるじゃない?それをこの間見つけて、つい引っ張ってみたの」
「なんだってそう恐ろしいことばかりするのですか。聞きませんよ。帰ります」
タライの中には拳ほどまで溶けた氷が浮いている。そろそろ帰ろうと障子に近付くと、そこに一つ、新たに抜け殻が張り付いていたのを見付け飛び退すさった。景義先生はくすくすと笑っていた。

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