「ホモ・デウス」を2023年に読んだら、相当厳しかった件に関して

「ホモ・デウス」という本をご存知でしょうか、あの「サピエンス全史」でブイブイ言わせたユヴァル・ノア・ハラリの新作!ということで、日本で出版されたときはかなり盛り上がっていました。

私もね、「サピエンス全史」を読んだ時は結構面白く読んだので、気にはなっていたんですよ。なので、期待しながら読み始めたたわけです。

ところがどっこい、第一章の部分でいきなりずっこけてしまいました。まずこちらを御覧ください。

「この数十年というもの、私たちは飢饉と疫病と戦争を首尾よく抑え込んできた。もちろん三つの問題は、すっかり解決されたわけではないものの、理解も制御も不可能な自然の驚異ではなくなり、対処可能な課題に変わった。(中略)飢饉や疫病や戦争を防ぐためにはどうするべきかを、私たちは十分承知しており、たいていうまく防ぐことができる」

(ホモデウス 上巻 P10より)

いや、できてねーじゃん。とくに後ろの2つ。

もうね、本を開いたまま叫びましたよ。できていない、出来ていないよ、ハラリ先生!!!!人類は、2023年の人類は疫病も戦争も防げなかったんですよ!!!って。

断っておきますが、この「ホモ・デウス」が書かれたのは、2016年、今から7年前の話になります。(本文中では2016年となっていますが、何故か奥付だと2015になっています。また日本語版が出たのは2018年ですので、5年前になります)

だからこの本が出版された時には、トランプ大統領もまだ誕生していませんし、コロナウイルスが世界を覆うことも、反ワクチンも陰謀論も、常任理事国による大規模な侵攻も起こっていなかったわけです。なので、変わってしまったのは世界の方で、いくらなんでもこんなに狂った未来を予想できるわけないだろ!!と言われると、むしろ現実サイドから壮大にハシゴを外されてしまったハラリ先生の方に同情したくもなります。しかし、じゃあハラリ先生の現状認識に問題がなかったのかというと、私はそうでもないと思うんですよね。

楽観的すぎやしませんか?

例えば、この本が書かれた時点でロシアによるクリミアへの侵攻は起こっていたわけです。あれは2014年の出来事ですから。今回のウクライナ戦争が始まって、ウクライナの人が「戦争は2014年にロシアがクリミアを武力で奪った時から既に始まっていた。国際社会が見過ごしていただけ」みたいなことを言っていて、私は「もし、あの時もっと国際社会が強く出ていたら……今の状況は変わっていたんだろうか」などと考えて、落ち込んだわけですが、たとえばハラリ先生は本文中でこのように述べています。

「核兵器のおかげで、超大国の間の戦争は集団自殺という狂気の行為になり、したがって、この地上での屈指の強国はみな、争いを解決するために、他の平和的な方法を見つけることを強いられた。同時に、世界経済は物を基盤とする経済から知識を基盤とする経済へと変容した。以前は、富の主な源泉は、金鉱や麦畑や油田といった有形資産だった。それが今日では、富の主な源泉は知識だ。そして、油田は戦争で奪取できるのに対して、知識はそうはいかない。したがって、知識が最も重要な経済的資源になると、戦争で得るものが減り、戦争は、中東や中央アフリカといった、物を基盤とする経済に相変わらず依存する旧態依然とした地域に、しだいに限られるようになった」

(ホモ・デウス 上巻 P26より)

今見ると、寝言としか言いようのない文章になってしまっているのが現実の悲しい所です。ハラリ先生は核兵器のお陰で世界には平和が訪れた。という認識を持っているようで、別の箇所でもそのことについて述べているんですが、現実世界は、核兵器を持っている国連の常任理事国がやっちまったわけで、全然その通りではない。そしておまけにこの文章が書かれた時既にロシアはクリミアを武力で奪取しているんですよね。その状況を見た上で上記のような文章を書くのは、今となっては擁護するのも難しい。(一応、ウクライナが核を持っていれば戦争は起きなかったという主張はありますが)

もっとも、ハラリ先生だけが間違っていたかというと、そんなことはないと思ってまして、我が国の首相なんてクリミア侵攻のあとプーチン大統領と会談して「駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」なんて呼びかけしちゃったわけですからね。考えてみれば既にクリミア侵攻していた相手に交渉できるというのが甘い考えだったのかもしれませんが、2016年というと、割りとそんな空気がありました。
なにを隠そう、実は私もロシアについては甘く考えていたフシがあり、現在深く反省しております。

我々、世界が平和だと勝手に思い込んで、見たくない現実から目を背けていただけなのかもしれませんな……。

医療についても似たようなもので、ハラリ先生は、人類は疫病を抑え込むことに概ね成功しているということで、成功例をこんな感じで出しているんですが

「2002~2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)、2005年の鳥インフルエンザ、2009~2010年の豚インフルエンザ、2014~2015年のエボラ出血熱という具合に、数年おきに新しい疫病になりかねない病気が発生し、私達を慌てさせる。とはいえ、効率的な対策のおかげで、こうした事例では今のところ比較的少数の犠牲しか出ていない」

(ホモ・デウス 上巻 P20より)

今読むと思わず笑ってしまうようなところだと思います。そして、そのあと、あの頃はよかったなぁと思い出して泣くわけですが。だいたい、SARSも、対応にあたった医師が頑張ってなんとかなったから食い止められたわけで、もし封じ込めに失敗していたら、相当な被害が出ていたのではないかと思います。

いわば、ギリギリのところでなんとかなった事例を前に「なんだ、それほど怖くないじゃん」みたいなことを言っていたわけで、そういう楽観論のツケを我々は今支払わされているのかもしれません。

なお、この章では過去のスペイン風邪も紹介されているのですが、感染者数5億人、死者は5000万人~1億とされています。ちなみに今回のコロナウイルスはこのテキストを書いている2023/02/05の時点で、感染者数6億人、死者、670万人という数字ですので、感染者数だけなら既にスペイン風邪を超えているんですね。まあ、人口比で考えると今のほうがずっと人口が多いのでその分を差し引く必要がありますが。

(上記を参考にしました。)

思ったよりも遠回りした世界

第一章のハラリ先生、自信満々で断言したことが、次々に現実によって否定されていく所がかなり可哀想ではあるんですが、それでもいくつかの部分には同意できる所もあります。たとえば、第一章でハラリ先生が言っていることは「飢餓、疫病、戦争という三つを人類は抑え込むことに成功しつつある」「だから、この三つの宿題をクリアしたあとの人類はどうなっていくのか考える必要がある」ということなんですが、まあ、ハラリ先生の予想より現実は大分遠回りしているとはいえ、本文中にあるように暴力で死ぬ人間の割合は昔に比べてずっと下がったし(と言っても第一次、第二次の世界大戦で跳ね上がってはいるわけですが)、感染症にある程度の対策が取れるようになったのも事実だとは思うんですよ。ワクチンがなければ、コロナの死者はもっと増えていたと思いますし。

だから、「2016年でこの認識は目が曇っていたとしか言えないだろ!」「コロナはどーなんだコロナは!」みたいに文句を言いたくなる部分もありますが、「でも、改善はしてきているでしょう」と言われると、まあその通りかなと思いますし、1章の主張には概ね賛成ではあります。

ただ、残りの部分を読んでいても思うんですが、ハラリ先生、悪い癖がいくつかあると思っていまして、その一つがこの「断言する」という部分だと思うんです。

断言族の時代

近年SNSを見ていて考えるんですが、断言する人って人気を集める傾向があると思うんですよ。

私はその人たちを勝手に断言族と呼んでいます。
断言族は、専門家からみておかしなことを自信満々に断言します。

「実は〇〇は△△なんですよ!」

てな感じで。完全に何一つ根拠のない妄言じゃん。みたいな場合もあれば、概ねはあっているんだけれども、正確に言うならちょっと違うよね。みたいなこともあると思います。同じことを専門家が言うと、最低でも

「〇〇は△△という可能性が高い」「〇〇は△△という説がある」

みたいな表現になると思うんですが、断言族はそうではない。

ところがこの両者が並ぶと、悲しいことに、断言族の方がより沢山シェアされたり、いいねを集めたりする傾向にあると、私は思うんですよね。

どうしてみんなこんな連中を信じるんだ?断言している時点で少なくとも専門家の態度ではないんじゃないか?と悩むこともありますが、考えてみれば、これはある意味味仕方のない事だとも思います。
「Aという条件において、Bという傾向がCという信頼性で発生することを確認した」とか「Dの可能性が高い」とかより、「AはB!わからないやつはバカ!」みたいな方がシンプルだし、分かりやすい。もっとも分かりやすいと真実であるは別問題なんですが、一般大衆にはそんなことどうでもいいわけで。

細かいことをグチグチつぶやく面倒くさいOTAKUより、気持ちよくスパーっと、答えをくれる人間の方がやっぱり好感度上がるし、ちやほやされるわけですよ。(自分で書いてて腹たってきたな)

で、話は長くなりましたが、私はハラリ先生というのは、かなりの部分この断言族に足を突っ込んでいるんじゃないかなと思っています。

例えばハラリ先生は、「人間は虚構の世界を認識できるようになったから、繁栄した」と考えていまして、「サピエンス全史」でもバリバリ推していたわけです。正直なことを言えば、私はこの説が大好きです。面白いし、ロマンがある。ただ、これって確実にそう言えるかというと違うじゃないですか。

いやいや、それは一つの説であって、証拠として挙げられているものも、別の解釈できるでしょ。考え方としては面白いけれども、断定はできませんよね。みたいな部分があります。例えば、「サピエンス全史」では、ライオン人間の像を持って「これこそが人間が虚構を認識できるようになった証拠」と主張しているわけですが、たまたま現代に残ったのがその像だけで、それ以前もあったのでは?とか、ライオンの毛皮をかぶった人間をそのまま作っただけなのではないか?とか、いろんな解釈や可能性があるわけじゃないですか。

ハラリ先生は、「神」を人間の発明品として捉えているようで、その考え方はすごく魅力的なんですけれども、そもそも古代の人が現実と現実でないものをどう見分けていたのかなんて実際のところはよくわからなくて、例えば古代人だって夢は見るし、脳がおかしくなれば幻覚を見ることだって十分にありえる。

「見てしまう人びと」という本では、様々な神聖体験が脳の異常で発生するのではないかという事例が紹介されていまして、強い幻覚になると現実と見分けがつかないぐらいにリアルだそうです。

そういう幻覚を見る人にとって、神の存在やライオン人間は、虚構の存在ではなくて、紛れもない現実なんですよね。信じる信じないじゃない。だってそこに居るんだから。そしてそれには虚構を信じる能力は別に関係ないわけで……。

と、まあ、こんな感じにいくらでも反論ができる話だとは思うんですが、ところが、そこらへんは無視され、いつの間にか本文中でそれは「事実」となっていく。仮定の話をもとに論理を組み立ててもあんま意味ないわけですよね。最初の出発点が間違ってたらどうするんだって話ですよ。

なのに、ハラリ先生は自信満々で断言する。私はそれが彼の人気の秘訣であり、同時に問題点だと思っています。今回は世界が変わりすぎたので、「いやあんたの言っていること、現状把握が全然できてなかったじゃん!」ってツッコミを入れたくなってしまうわけですが、そうでなければ今でもブイブイ言わせていたかもしれない。

これって小説でしたっけ?

さて、ハラリ先生の悪い癖は他にもあると思っています。それが、お話を面白くするためにドラマチックに盛ること。いや、ドラマチックに盛っているからこそ、人気が出た面もあるとは思うんですが……。例えば、コンピュータ系の人なら誰でも知っている偉人、アラン・チューリングと、彼が生み出したチューリングテストに関しての部分です。

「チューリングテストは、1950年代のイギリスですべての同性愛者が日常的に受けざるをえなかったテスト、すなわち、異性愛者として世間の目を欺き通せるかというテストの焼き直しにすぎなかった。チューリングは、人が本当はどういう人間なのかは関係ないことを、自分自身の経験から知っていた。肝心なのは、他者に自分がどう思われているかだけなのだった。チューリングによれば、コンピュータは将来、1950年代の同性愛者とちょうど同じようになるという。コンピュータに現実に意識がるかどうかは関係ない。肝心なのは、人々がそれについてどう思うのかなのだ」

(ホモ・デウス P152)

チューリングテストについては各自ググっていただくこととして、ここでハラリはアラン・チューリングが同性愛者であったという事実と、チューリングテストを絡めてドラマチックに解説していますが、私の知る限り、チューリングが自分の性的指向とチューリングテストを絡めて発言したことはありません。(知らないだけかもですので、もし近い発言を見つけた方は教えていただけると幸いです)

ところが、ハラリ先生はチューリングの内面まで勝手に記述してしまう

あの、これって小説でしたっけ?

事実と意見と描写がごっちゃになっているのは流石に不安を覚えます。私はこの分野に詳しくないのですが、史学ってこれでいいんですか?まあ、ハラリ先生がどういう指導を受けていたかはさておき、私はこの部分を読んで非常に不誠実な態度だと思いました。せめてさぁ……「チューリングが何を考えていたのかはわからない。だが私は彼がこう考えていたのではないかと思う」ぐらいのクッションを入れてくれれば……。

その他、ここはどうなのさ

他にも首をかしげる所はあります。例えば、人類が地球環境に対して与えた影響について

「これは前例のない現象だ。およそ40億年前に生命が登場して以来、一つの種が単独で地球全体の生態環境を変えたことはなかった」

(ホモ・デウス P94)

藍藻類が光合成で酸素を生み出し、地球の大気組成を変えてしまったことが完全に無視されています。藍藻類は一つの種ではないから……という言い訳もまあやろうと思えばできそうですが、言わんとしていることはそうではないですよね?

また下巻に入ってからの6章もかなり首をかしげる部分が多いです。近代になって、人類は信用に基づく経済を生み出して多くの資金を集めることが出来るようになった。という説明がされているのですが、当たり前ですが、商売も借金も古代からありました。

また、近代以前、例えばルネッサンス前のイタリアでもお金を借りて商売をするということは一般的に行われていましたよね。(だから、銀行という商売ができたわけで)信用をお金にすること自体は広く行われていたので、何も近代の専売特許ではないわけです。

しかし、「世界のものは総量が決まっているゼロサムゲームだけれども、経済はゼロサムゲームではなく、信用によって全体のパイが増え続ける。でも人間はゼロサムゲームの方に慣れているので、どうしてもそれに引きずられて物事を考えてしまう」という指摘はあたっていると思います。たしかに、本質的に違うものなのに、ついつい別物として考えてしまうんですよね。

また、下巻のP135ではサイバー戦争の危険性を訴えているんですが「スーパーハカーが本気を出したらあっという間に戦争に勝利することも可能なんだ!」みたいなびっくりするほど解像度の低い意見でずっこけそうになりました。いや、そうやられないために色々対策取ってるわけじゃんっていう……。

専門以外のことは、せめてその分野に詳しい人に聞いていただけませんか……?

人間至上主義革命の話は面白いですよ

私がこの本の中で一番面白いと思ったのが、この7章、人間至上主義革命の部分です。

ハラリ先生曰く、「人間が一番大事」という考え方は現代に浸透していますが、これはかつての社会を考えるとかなりの変化なのだとか。

面白いことに、今日では宗教の狂信者さえもが、世論に影響を与えたいときには、この人間至上主義の主張を採用する。一例を挙げよう。イスラエルのLGBTコミュニティは過去数十年間、毎年エルサレムの通りでゲイ・プライドパレードを行ってきた。これは、争いで引き裂かれたこの町では珍しく調和が見られるひだ。なにしろ、信心深いユダヤ教徒とイスラム教徒とキリスト教徒が、突如共通の大義を見出し、一丸となって同性愛者たちのパレードにいきり立つのだから。だが、なんとも振るっているのは、彼らが使う論法だ。彼らは、「神が同性愛を禁じているのだから、これらの罪人たちは同性愛者のパレードなど催すべきではない」とは言わない。その代わりに。マイクやテレビカメラを向けられるたびに、すかさずこう説明する。「聖なる町エルサレムを同性愛者のパレードが過ぎていくのを見ると、感情を傷つけられる。同性愛者たちは私達に、自分の感情を尊重してもらいたがっているのだから、私達の感情も尊重するべきだ」

「ホモ・デウス」下巻 P39-40

これの後に「これこそ驚くべき進歩というものだ」という嫌味が入っていてとても良いです。恨み溜まってたんだろうな!

しかし、そう言われてみると、たしかにこの部分は大きな変化かもしれません。私は人間至上主義が浸透した後の時代の人間なので、「人間が自分のしたいことをするのは当たり前じゃん」「利害が衝突した時は法律が必要になるけれども、そうならない限りは自由じゃん」みたいに考えるんですけれども、これってかなり新しい考え方で、昔は全然違った意識を持っていたわけですよね。

それこそ「神がそう言っているから」という時代が長かったわけで。

そう考えると、この人間至上主義がいつまで続くかの保証ってないわけですよ。もしかしたら、未来にはかなり後退して、再び迷信の支配する世界に戻るかもしれず。ハラリ先生は、この人間至上主義もそろそろ限界に来ているんじゃないかと指摘しています。

例にも出てくるように「私は傷ついた」ということを持って相手をコントロールしようとしたり、人間の価値が上がりすぎて、対立する両者に決着がつかなかったり。この後どういう方向に進んでいくのか、気になる所です。

この後に続く8章以降もなかなか面白い話が続くのですが、ただ、残念ながら未来予測の部分になると、ぶっちゃけどっかのSF小説を読んだほうが手っ取り早いのでは?と思ってしまう部分もありますので、特に書くこともないです。買って読んでください。まあ、ハラリ先生はSF作家ではなくて、歴史家なので仕方ないとは思うんですが。餅は餅屋、SFはSF作家に聞くのがいいと思います。

全体を通してどうだった?

「ホモ・デウス」、全体を通してですが、残念ながら私の評価はそれほど高くありません。別にハラリ先生は予言者ではないので、いいっちゃいいんですが、それでも、人類の未来を大胆に予想するという本の冒頭でいきなり予想を外しているのは切ないものがあります。
その印象が悪かったのが影響しているのもあるとは思うんですけれども、紹介したように、その後もなんていうか、「この論理は雑では?」みたいな所がいくつか出てくるんですよね。間違っているわけではないんですけれども「それって、そうと言い切れなくない?」という話がいつの間にか確定事項として扱われていたりするのが厳しい。

面白い部分もあるんですが、「いや、これは違うだろ?」という所をいくつも見せられたために、私がおもしれ~と思った所も、実は専門でやっている人から見れば「は?」って部分があったりするのかな。と思ってしまうのも難しい所。

読み終えて、やっぱり思ってしまうのが断言族の所。ハラリ先生は、SNSでバズる人みたいに、適当なことを断言することで人気を博したのでしょうか?それとも、私に素養がないから理解できないだけで、見る人から見ればちゃんと裏付けが取れてたりするのでしょうか?

最後に、断言族みたいな言葉を作って批判しましたけれど、これってハラリ先生だけが悪いわけではなく、誰にしもあることなんですよね。

というか、かくいう私も気を抜くとすぐに断言族になってしまう。いや、本当に皆さん、いつもすみません。「ま~た、こいついい加減なこと言いやがって!騙そうってんじゃないだろうな!」みたいな態度で、読んでもらえるとありがたいです。いや、私もね、できるだけ根拠を示して当たるようにしているんですが、マジですぐ自分の考えに乗っ取られてしまう。

断言族をこれ以上増やさない方法、それは私達一人ひとりがツッコミをいれつつ生きていくことだと思いますから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?