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「他人は自分を映す鏡である」という言葉が苦しい人へ


「他人は自分を映す鏡である」という言葉があります。

よく聞く大まかな意味としては、
「人を見てマイナスな感情になるのは、自分にもそういうところがあるからだ」
…というような感じです。

そう言われるとちょっと厳しく聞こえますが、
私はそういう単純な意味合いの言葉ではないと思っています。

例えば、誰かが急に仕事を休んで、「大丈夫かな?」ではなく「またあの人休みか…」と自分の中にモヤモヤが生まれた場合。
これは、自分もよく休むからそう感じるのではないですよね。

そうではなく、「人は我慢して働き続けるべきだ」という自分の中の固定観念が実はあり、自分はそれに従って我慢しているから、従わない人を見てモヤモヤするんだと思います。
つまり、本当は「私も休みたい」と心が叫んでいる可能性がある。
…というところまで辿り着くためにあるのが、この「他人は自分を映す鏡である」という言葉なんだと思います。

「他人は自分を映す鏡である」とは、文字通り「他人を、自分の内面の状況を映し出す鏡であるという見方もできるよね」という意味の言葉なんだと思います。

このように、「他人は自分を映す鏡である」という言葉を信じてみることは、最終的に本来の自分と出会うための手段として、かなり有効なものだと私は感じています。

他人にマイナスな感情が沸くと、同時に自己嫌悪も募って余計ストレスになってしまいますが、
この言葉はそれを、自分を救うきっかけへと切り替えてくれる大事な言葉だとも感じています。


…しかし反面、この言葉を単純な理解で利用することや、乱用することは、人の心に良くない影響を及ぼすとも思っています。

例えば、「他人に感じたマイナスな感情」=「自分を振り返って反省すべき部分」と安易に決めつけてしまうとどうなるでしょうか。

一時的なら有効なこともあるかもしれませんが、それを繰り返していると、次第に過剰な心の抵抗が生まれ、自分の内側に向かっていくにあたって逆に障害となってしまう可能性も高いと思います。

なぜなら単純に相手が失礼だから…という場合もあるかもしれないですが、
そこで見ようとする自分の内側の固定観念は、ほんっっっとうに根深いものだからです。
自分を縛り付けるものとは言え、一度は幼少期に自分を外敵圧力から守るために、幼いながらに必死で作り上げた心の要塞です。
トラウマとも言えます。

その要塞は心が弱いから、考えが甘いからできたんじゃないはずです。
生きるためには、作り上げるしかなかったんだと思います。

さらに多くの場合、その根深いトラウマは殺伐とした社会に触れるうちに認知の歪みや考えの複雑なねじれを生み、既に一筋縄では解決できないものに成ってしまっています。

そこに向き合うには本来、個々の適切なタイミングや、踏むべき手順があるはずです。

それなのに「絶対に振り返って反省すべき部分だから」という考えに囚われて無理に心の闇をこじ開けようとすると、どうなるでしょう。

場合によっては、狂ってしまいます。

だから向き合おうとして、どうしても不快に感じたら、そのときはまだそこに向き合う段階ではないのかもしれません。
もっと別のところを見てあげたり、まだ自分を癒してあげるべき段階なのかもしれません。

無理に言葉に従うことは、ないんです。
そうやって自分を大切にしているうちに、自然と向き合えるようになるものなんです。


これは、1人で内省する場合に限った話ではありません。

世の中には「他人は自分を映す鏡である」という言葉に限らず、こうした格言を、「この世界に存在する普遍の法則」とする考え方もあります。

しかし法則だと信じるから・人を救いたいからと言って、その考えを人に一方的に適応して解決に導こうとしたり、
ましてや人に振りかざして、意見を正当化するのに使っていいわけではないと思います。

それは、本気で自分と向き合おうとする人の心の奥深くに、余計な混乱と傷を与えてしまう行為だと思います。
理由は前述のとおりです。

私たちは神などではなく、いち個人である以上、
「他人は自分を映す鏡である」は、自分の心にしか適用できない言葉だと思うんです。

この言葉は、本当にこの宇宙全体の法則なのかもしれません。
けれど、こうした深い内省が絡む理論を用いて他人様の領域へ踏み込むなんてことは、遠慮するのが正しい場面の方が多いと私は思います。

他人ができるのは、「『他人は自分を映す鏡である』という考え方が存在するよ」と教えてあげることぐらいだと思います。


…そして私が言いたいのは、
ここまで言ってきたような、理論の雑な振りかざしを、自分に対してしていないか?(もちろん、する必要はないんだよ)
ということです。

「他人は自分を映す鏡である」とは、

他人にマイナスな感情を感じた時、それは
「自分の中に、自分を苦しめるような固定観念があるのではないか?」
「そのような思考のループから抜け出し、楽になってもいいんじゃないか?」
ということについて考える、あくまできっかけやヒントになるだけ。

だと私は思っています。

逆に言えば、それ以外の余計な意味づけはいらないと思っています。


たとえ相手を見て嫌な感情が湧き、自分の中に思考の癖を見つけることができたからと言って、
その克服のためにわざわざ相手と同じ行為をしなくたって、いいんです。
意に反して相手を認めなくていいし、相手と同じにならなくっていいんです。

あなたは、あなたのままでいいんです。

大事なのは、自分の中に何が起こったのか(どう感じたのか)、ということだけ

それに気づくきっかけは他人の言動だったかもしれません。
ですがあくまできっかけにすぎません。
自分の中の内省に移った途端、他人はもう関係なくなります。

これは、人に強制されて向き合うことではないんです。
もちろん、人が人に説教するために使う言葉でもない。

大丈夫。
あなたの内省は、誰にも邪魔できるものではありません。


そうは言っても、自分だけに焦点を当てたって解決できない、苦しい…という人もいるかもしれません。

そもそも「人を見てマイナスな感情を感じた際に意識を自分に向ける」って、すごく難しい作業だし、場合によっては苦行とも言えるほどだと思います。

だって考えてみてください。誰かのせいで嫌な気持ちになったんですよ。
普通に考えて、まずその時点でストレスじゃないですか。
なのにその責任を、他人ではなく自分に向けるってことをしてるんです。

もうその時点で十分偉いじゃないですか。
克服できなくても、もう十分、すごい。

先ほども述べたように、自分の中のトラウマとも言えるレベルで出来上がった観念を打ち砕くなんて、並大抵の力ではできません。

それを1人でやろうとしてるのだから、エネルギーの消耗もすさまじいと思います。

そんなすごいことをしているんだよ、ということをまずは自覚して、
ぜひぜひ、自分に優しくしてあげてください。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました🕊

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