東浩紀「存在論的、郵便的」感想

  東浩紀との出逢いは「動物化するポストモダン」である。高校時代のわたしは、その内容に一部反発しつつも、熱心に読んだ。いわゆる「オタク文化」について、学問的視点から(あるいは、他者の視点から)書いた著書を読むのは初めてだった。

 その後に読んだのが、「存在論的、郵便的」だった。学歴に差がありすぎる人の著作だから理解しきれなかったが、SF小説を読んでいるような高揚感だけはあった。

 その「存在論的、郵便的」を読んで思ったことを、以下に記しておく。(過去に別のところで公開している)

 カントは、主体をビデオカメラのようなものとして把握した。ただし、我々が使用するビデオカメラにはない、多くの機能を備えたものとして、提示した。
 我々は、空間と時間を移動する目の前のボールをごく自然に同一のものとして認識する。あるいは、ある時点で机の上にあったコップが、流し台においてあれば、誰かが移動したのだろうと、何の問題もなく理解する。
 マッチをすれば、火が起こる。握った石を手放せば地面に落ちる。
 同一律、因果律、時間の流れ、空間の広がり、それらは主体というカメラに備わった世界認識の規則の束なのである。世界はそうした規則の下に構成され、現前する。
 その主観による規則が支配する前の世界を、我々は認識することはできない。
 世界と生とは一つなのである。

 ところが、ただ一つ矛盾が生じる。
 カメラ本体であるはずの主体自身が世界の中に登場してしまうのだ。カメラのレンズや、撮影素子が、動画の中に映り込んでいるようなもので、極めて不可解な現象であるが、なぜか主体と世界はそのような構造をしている。
 世界の中に登場する主体は、世界を認識する主体が構成する規則に完璧に従って、世界を認識し続ける。認識の規則に対して、さらにその外部の根拠はない。
 主体の作り上げた同一律や因果律の正しさの根拠は、分裂しつつも同一の存在である主体自身なのだ。これは、極めて強固な構造である。自分で自分を支えているのだから、外側からは崩しようがない。
 こうした世界観の下では、主体は首尾一貫した行動を求められるだろう。どんな時でも、究極的には同一の基準に従って人は行動しなければならないのだから。おそらくこれは、近代において必要とされた思想だ。
 私たちの先達は、「〇〇主義」という首尾一貫した思想を掲げていた。それが当たり前だった。だが、現代においては、おそらくそれは違う。

 主体の正しさの根拠が、主体それ自体にしかないのだとすれば、自分自身がどれだけ首尾一貫した行動を取っているつもりでも、それが支離滅裂であることをどこまでも排除できない。1+1という式が登場した時に、常に2と答えることが、本当に首尾一貫した行動なのかどうか、主体は根拠を持たない。
 だとすれば、近代人が描いた、理性的な主体とは、実は支離滅裂なバラバラのオートマトンの集合体であったと解釈できるだろう。
 このような世界観の下では、そもそも最初から首尾一貫した行動は求められない。
 あまりにも多種多様な社交場が存在してしまった現代社会に適合した思想だと言えるだろう。ある場面ではアニメ好きのオタク、ある場所では有能なサラリーマン、ある場所では熱心なスポーツマンであるような、その”空気”に場当たり的に合わせることのできる人間が求められているのだ。 
 たとえ、私たちが「〇〇主義」を掲げたとしても、それはもはや世界のごく一部分にしか影響力を持たない。私たちと”空気”を共有する特定の人々だけに通じ、あとの人たちにとっては全く必要のないものとなる。
 インターネットの文化は、まさにそのことを体現しているように思われる。



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