異世界将棋道場 いざよい 第3話

 カーヌーンガルドが現在のような小国の連合体となったのは、300年前のことだ。それより前は、強大な外国勢力の支配下にあった。
 だが、千年前。カーヌーンガルドは古代帝国ソーナの中心地域として繁栄を極めていた。古代帝国は大陸の大半を支配下におき、古代文明の極地に達していた。行政技術、農業の生産性、建築技術等々はソーナ帝国の時代を頂点とし、その後衰えた。天才レオナルドをもってしても、ソーナ時代の水道橋や運河の設計図を起こすことはままならない。
 そして、途絶えた技術の一つとして、紫色の染料の製造法がある。
 ソーナの皇帝達は紫色の外套を身に纏って、その権威を示した。紫の染料を製造するのが難しく、貴重なものだったからである。皇族達はその技術を独占していた。だから、ソーナ帝国が内紛と蛮族の侵略によって崩壊すると、技術は失われた。

 現在、紫色の染料が存在しないわけではない。だが、未だ色あせない古代紫に比べると深みがなく、見劣りしている。
 再びカーヌーンガルドに繁栄が戻ってきたとき、志のある商人や染料業者は古代紫を復活させようと研究を始めた。
 だが、成功したものはいない。

 将棋道場「いざよい」
 やよいと井鍋が紅茶を飲みながら窓の外を眺めていると、景色が滲むように変わっていった。今日も、道場は日本からカーヌンガルドヘ、存在の場所を移したのだ。
 それから間も無く、道場の扉を開く音がした。
 入ってきたのは、うだつの上がらない役人ミケーレ、最近天職を見つけたグリエルモ、そして18、9と思われる女性だった。
 井鍋とやよいは席を立ち上がり、笑顔で挨拶した。
「こんにちは。今日は、工房で働いている仲間のマジェンタを連れてきたんだ!」
 マジェンタと聞いてピンときた。
 潰れた染料問屋の娘で、グリエルモの幼なじみだ。グリエルモの背後に隠れていたマジェンタが、恥ずかしそうに挨拶した。
「僕が将棋を指しているのを見てもらおうと思ってさ」
「良いことです。では、ミケーレさんとグリエルモさんで勝負しますか?」
「もちろんです」
 二人は子供みたいな笑顔でパイプ椅子に座り、将棋盤にコマを並べ始めた。グリエルモはマジェンタの方を気にしている。自分が全力で戦っている姿を見てほしいのだろう。
 そのマジェンタは、別の机に置かれた将棋のコマを不思議そうに眺めている。
「これは文字ですか?」
「はい。私の故郷で使われている文字なんですよ」
 と井鍋が説明する。
「…遠い国からいらっしゃったんですね。こんな文字、見たことないです」
「ええ、まあ」
 喋りながら井鍋はお茶の準備を始めた。
 マジェンタとやよいは向かい合うように座る。マジェンタは将棋の対極には興味がないようだが、将棋の駒の造形に惹かれているようだ。
「この文字はどういう意味なのかな?」
 マジェンタは香車のコマを指差した。
「それは、香る車という意味で…」
 やよいは言い淀む。将棋の駒の意味まで考えたことはなかった。香車は真っ直ぐ進むだけのコマだが、なぜ「香る」のだろうか。
 そこで井鍋が合いの手を挟んだ。
「一説に、香木を載せた車の事を表していると言います。香木は匂いのする貴重な樹木のことで、大事なコマということでしょう」
 言いながら、マジェンタに緑茶と練り切りを出す。やよいのカップにはまだ紅茶が入っている。
「では、これは? よく似た文字ですよね」
 マジェンタは二つのコマを指差した。
「金将と銀将ですね! 金と銀、つまり王様の側近の大事なコマ、という意味でしょう!」
「へー、おもしろいなぁ!」
 井鍋の説明を一つ一つ納得しながら訊ねていくマジェンタ。どうやらゲームとしての将棋にはあまり興味がないが、文字を通して見える異国の文化に興味があるのかもしれない。
 グリエルモがミケーレの肩越しに自分を見ているのを、マジェンタは気がつかない。井鍋やミケーレなどのおっさんは、微笑ましくその光景をみている。彼らにも、好きな人に想いを伝えられない日々があったのだ。今は、半分枯れ木のようなものなのだが。
 グリエルモの視線に気がつかないマジェンタは、緑色の液体を口に含んだ。
 口に広がる、透き通った渋み。こんな味の飲み物は初めてだが、味覚が混乱することはなかった。フッ…とかたの力が抜ける感じ。やよいから「リョクチャ」という飲み物だと説明を聞く。
「やよいちゃんが飲んでいるのは、何? ぶどう酒に似た色合いだけれど、お酒ではないよね?」
 やよいが酔っ払った様子はない。
「これは、紅茶ですよ。マジェンタさんが飲んでいる緑茶葉を発酵させたものです」
 学校で習った知識を披露するやよい。発酵と言っても、微生物による発酵ではなく、酸化させたものだ。
「へえ。発酵させると色が赤になるのね! 染料にもそういうものがあるわ!」
 染料は植物の根、貝が持つ色素、動物の糞から作る場合もある。特に植物の根等は、発酵させると色合いが美しくなり、水洗いしても落ちにくくなる場合が多い。
 マジェンタは深く溜め息をついた。
「発酵させるだけで色が作れるなら苦労しないけれど…。私の父が店を潰したのも、それが原因なの…」
「え?」
「古代紫を作ろうとしていたの。でも…」
 マジェンタは悲しげな表情を浮かべて口籠った。
 マジェンタの父ゲルググは、もともと商人としては不適格だった。職人気質で、朝早く起きて各種の原料を仕込み、出来上がったものを壺に入れ、店頭に並べる。愚直な仕事ぶりで、一定の評価は受けていた。だが、会計や接客などは妻に任せきりになり…、自分は古代紫の復元に打ち込んだ。だから、妻が亡くなって、お店は回らなくなったのだ。
「レオナルドさんの工房の設備を借りて、私も実験を繰り返しているの。父の失敗を目にしているのにね…。でも、父が残した遺品の中に、一つだけ紫色の布があった…。父は成功していたの! なのに、死んでしまった。父の功績は誰にも讃えられることなく…」
 マジェンタの瞳は湿り気を帯びて光っている。
 多分、世俗のことに興味がなく、ただ自分の道に打ち込んだ父のことを尊敬しているのだろう。
「お父さんは、何か手がかりのようなものを残していなかったのですか?」
 まだ11歳のやよいだが、マジェンタの悲しみと悔しさは十分に理解できた。だから、何とか助けてあげられたらと思う。
「古代の文献では、レッカ草という草の根を使うと書いてあるそうなの。珍しい草だけれど、山に入れば手に入れられなくはない」
「じゃあ、できるのでは!?」
「…草はある。でも、煮る、発酵させる、乾燥させる…いろいろ試したけれど、紫色にはならなかった」
 マジェンタの表情が暗くなる。やよいは返す言葉を探したが、見つからなかった。
「まあ、やよいちゃんにこんなことを言ってもしょうがないわね。ミケーレさんとグリエルモの勝負を見学しよう」
 マジェンタとやよいは立ち上がって、対局する二人の机を囲んだ。
 グリエルモもミケーレも真剣な表情だ。もう終盤の詰むや詰まざるやの局面。
 コマが複雑に入り乱れて、どちらに勝ちがあるのか、パッと見では分からない。
 だが、やよいは瞬間的に詰みが見えた。
 グリエルモの王に必至がかかっているが、一手差でミケーレの王が詰んでいる。捨て駒が多く、難しい詰みだが、いつものグリエルモなら分かるだろう。
 だが、グリエルモの様子がおかしい。顔が赤くなっているし、呼吸も乱れている。何より、コマを持つ手が少し震えている。
 日本の偉大な棋士の中には、勝ちを読み切ると手が震えるという人がいるが、それとは明らかに違っている。むしろ、何か力みすぎているというような。
 グリエルモは緑茶を一口飲んだ。
 グリエルモ自身がデザインして職人に作らせた、鉄製のコップ。ガラスの破片が象嵌されており、ステンドグラスのように美しい。もしかすると、それもマジェンタに見せるために持ってきたのかもしれない。
 そして、溜め息をついて王手をかけた。やよいの読みとは違っている。
 かなり王手は続く。
 だが、ミケーレの読みは正確だった。
 王手が掛からなくなった瞬間、グリエルモの王は詰んだ。
 グリエルモが頭を下げ、投了する。
「互角の勝負でしたね。でも、ミケーレさんの王は詰んでいたんですよ。7手詰みです」
「え?」
 グリエルモとミケーレは、同時にやよいの顔を見た。驚きの表情を隠せない。
「角を捨てて、飛車を捨てて、最後は銀と香車の連携で詰みです」
 なるほど、王が端にいる場合、香車と銀で詰みがあるのだ。グリエルモの棋力なら読み切れたはずだが、勝ちを焦っていたのだろうか。
「よく分からないけれど、残念ね…。勝てる戦いを勝てなかったのは嫌なものだね」
 マジェンタが慰めの言葉をかける。だが、グリエルモがマジェンタの方に顔を向けたとき、マジェンタは別のことを考え始めていた。
「ん? 香車と銀…。つまり、植物と金属。まさか…」
 マジェンタの表情が、パッと明るくなった。カバンの中から、白い紙を取り出す。
「ちょっと、飲み物をお借りします!」
 ミケーレの緑茶と、グリエルモのコップに入った緑茶を、数滴紙に滴らした。
「やっぱり! このコップ、鉄で出来ているのよね?」
「そう。僕がデザインした」
「見て!」
 マジェンタはお茶の染み込んだ紙をかざした。
「ミケーレさんの緑茶は、淡い茶色。だけれど、グリエルモのものは黒くなっている!」
 みな、ポカンと口を開けている。どういう話の脈絡なのか分からない。
「レッカ草と金属の組み合わせで、紫色が作れるのかも! 急いで工房に戻らなくっちゃ!」
 マジェンタは軽く挨拶をすると、道場から走り去っていった。

 井鍋は心の中だけで呟く。
『なるほど。緑茶のタンニンとコップの鉄が結びついて、タンニン鉄ができたのか。それで色が変わったんだな…。確かに、植物によっては紫色が発現するかもしれないな…』

 静かになる道場。
 ミケーレとグリエルモはまた対局を始めた。
 グリエルモから時々ため息が漏れる。そして、緑茶を飲んだ。
 ため息の原因が何なのか、井鍋にもミケーレにも、痛いほど分かった。
 だからといって、ミケーレは手を抜くつもりもなかったけれど。

 客が帰った後の将棋道場。
 窓の外の風景が、ネオンサインや常夜灯の煌びやかなものに変わっていく。
 扉の隙間から入ってくる空気が日本のものだ。
「紫色の染料、できるといいですね」
 やよいはシュークリームを頬張っている。
「ああ…」
 井鍋は、キラキラと目を輝かせていたマジェンタの顔を思い浮かべた。
 夢を追いかける若者の顔だ。
 彼女の父が果たせなかった古代紫の再現。

 それは、プロを目指す奨励会員と同じかもしれない。井鍋は自分が若かった頃を思い出す。奨励会時代、負け続けて、もうプロにはなれないのではないか、と諦めかけたこともあった。だが、様々な僥倖と、自分の努力によって、年齢制限が来るまでにプロ入りを果たした。
 将棋の神様が微笑んでくれたのかもしれない。
 マジェンタは努力している。
 グリエルモもミケーレも、自分の与えられた状況の中で最善を尽くして生きているに違いない。もちろん、努力していれば必ず目標に到達するわけではない。
 だが、だからといって努力をやめていいわけではないのだ。

 あどけない表情でシュークリームを食べるやよい。彼女はすでに奨励会2段だ。凄まじい才能の持ち主だが、まだまだ努力の余地はある。今、努力するかどうかで、将来が決まるだろう。
 もちろん、将棋だけでなく、普通の若者らしい生活も大切にしてほしいとは思うが…。
 シュークリームを食べ終わると、やよいは詰将棋を解き始めた。
 1問5秒もかからず解いている。
 現役を引退した井鍋は、スピードにおいて全く太刀打ちできない。マジェンタの努力、グリエルモの創造性と恋心、やよいの速さと正確さ…。どの部分も、井鍋はどこかに忘れてきてしまっていたようだ。それが、人生の下り坂というものなのだろう。

 ああ、若いっていいな、と思う。
 そして井鍋は、異世界であれ、日本であれ、夢を持つ若者を応援していこうと、決意を新たにしたのだった。

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