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段図抄日記 2022年8月29日~9月4日

これなに?

今田がツイッターインスタグラムで毎朝こつこつ更新している狂気のモーニングキャプション文芸「段図抄」の1週間の記録です。今田の素朴な日記と併せてお楽しみください。

本編でも触れてみました

▲「段図抄」の発端、作ってる最中の狂気、今後の灰色の展望について、雑談まじりに語りました。ひまつぶしか気の迷いで聴いてくださいね!

先週分

8月29日(月)「龍と暮らす区」

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撮影日:2022年6月23日
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■ひさびさロング散歩。敵は有線イヤホンやモバイルバッテリーのケーブル。某所で「イメ短歌」を知る。イメージソングの短歌版。ただ「イメージソング」もいろいろ。
▼室内のどこかにいる鳴くタイプの虫とともに、嘔吐彗星さんの自解スペースを聴く。川柳もネットプリントもスペースも同じトーンで不思議。人間の認知とは。

8月30日(火)「彫りの浅い」

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撮影日:2022年6月3日
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■なにか裏があるような涼しさ。残響スタジオでポトフ収録。夜はTVKでドラマ『OTHELLO』を。ちゃんと井口昇、というか「新耳袋」っぽくてぐっときた。あのころコメンタリー付きの新耳がおれをどれだけ熱くしたか。
『MANO』第12号(2007年2月)は小池正博の渡辺隆夫論、樋口由紀子の中村富二論など。おもろ。

8月31日(水)「勇者は党に上る」

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撮影日:2022年7月26日
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■ダンサーで振付家の神村恵さんのスタジオ「ユングラ」で雑談。しゃべりはじめる数秒前まで忘れていた話ばかり。U-NEXTでクローネンバーグの『クラッシュ』を。アイデアの組み合わせに中崎タツヤを感じる。自動車事故に性的興奮を覚える人たち。

『MANO』第13号(2008年3月)は小池正博の樋口由紀子論、樋口由紀子の時実新子論など。
▼「ここからは東京タワー拝めない」「靴下をはかない方が実の父」など、樋口の句の特定の一語を強調して(じっさいは太字ではなく傍線で)示したうえで小池は言う。

私見によれば、傍線を引いた部分の言葉によって一句は川柳になっている。これらの作品に刻印されている川柳性は、日常語と地続きでありながら川柳の言葉を成立させている。詩的言語の中における川柳言語の位相が、あるいは、詩的言語と川柳言語の差異がはっきりと立ち現れる。

『MANO』第十三号,P17,樋口由紀子・鏡像の世界
/小池正博

▼おもしろい言い方。むろんその言葉を入れれば自動的に川柳になるという言葉はないはずで、重要なのは「差異」だろう。これは同誌第16号の小池によるポエジーの解説でよりわかりやすく踏み込んで書かれている。
▼だめだ。『MANO』をどんどん読んでしまう。みんなこんな気持ちで毎週ジャンプを読んでいたのかも。小池さんと樋口さんは「1+1の会」という川柳を読む会もやっていて、その記録がMANOのブログ?に残っている。10年以上前のこと。貴重な資料では。

9月1日(木)「ショットバー」

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撮影日:2022年7月28日
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■榊原紘さんの歌集『悪友』出版2周年記念スペースのアーカイブを聴く。ぼんやりと疑問を持っていた「575と77ってどういうふうにつながる(べき)ものなんだろう?」的なもやもやがすこしだけ晴れたような。

9月2日(金)「ガロ」

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撮影日:2022年8月10日
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■榊原紘さんと高島鈴さんのスペースを最後まで聴き終える。充実の2時間半。夜はPtf.126「うばいあえ!現代川柳」が配信開始。現代川柳の読みの訓練と称して好き勝手しゃべる回。自分でも何度か聴いてみましたが、けっこういいですね。

『MANO』第14号(2009年4月)は佐藤みさ子の文章が圧巻。エッセイなんだろうか。笑いもホラーもフィクションもノンフィクションもぜんぶあるような味。句をべつにすると、これまでは小池正博や樋口由紀子の読みや論を目当てに読んでいたが、うかつだった。佐藤みさ子だった。

9月3日(土)「ニトロ」

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撮影日:2022年8月23日
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■朝からPtf.126「うばいあえ!現代川柳」の文字バージョンを書く。誰からも頼まれていない5,400字をネットに溶かすひととき。「うばいあえ!~」に刺激を受けたとおっしゃる海馬さんによる川柳読みバトルを観戦。判者もやる。

『MANO』第15号は小池正博「石部明 異界の表現者」、樋口由紀子「川柳における「私性」について」など。
▼樋口が言う「私性」は作者本人の人間性のことではない。強引にイメージで捉えるなら「私」というキャラクターに近いというか、「いると仮定された書き手」みたいなものだと思う。

「私性」と言えば、現実の「私」がいる、その現実の「私」の思いを書いたものだと思われがちであるがそうではない。経験や感情などが具体的にわからないもの、抽象的なもの、先天的に抱え込んでいるものなど、もともと自分の内側にぼんやり広がっている世界、それらを根っこに表現したものも「私性」である。(中略)一句の価値は作品以前の事実に感動するのではなく、現実の作者の「私」ではなく、事実であるかどうかとは別の次元での、作品の中にある「私」を知ることにある。

『MANO』第十五号,P29,川柳における「私性」について
/樋口由紀子

▼これ、もしかすると最近の作家なら体感的に理解できてることでは。しかしこうして思考の痕跡を残しておいてくれるのは(そしていま無料で公開してくれているのは)とてもありがたい話。
▼この号、やたらと読みやすく感じたのは表紙のデザインが変わるなどで執筆陣にもどこか心機一転的にギアを切り替えたようなところがあったのか、あるいは読んでいる自分が現代川柳に慣れたのか。

9月4日(日)「駆け上がり」

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撮影日:2022年7月26日
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■がっちり洗濯をして外出。駅の改札前でカートに乗った犬とベビーカーの赤子がすれちがう、その瞬間彼らの目が合っていたのがよかった。本屋で榊原紘『悪友』を購入。挟み込まれた紙(栞)に選評的な言葉があるのは岸田國士戯曲賞も同じ。
『MANO』第16号(2011年4月)は、小池正博のポエジー論、石部明の時実新子論、樋口由紀子の小池正博論など。ちょうど『水牛の余波』出版のタイミング。樋口由紀子の文章は、

小池正博は文学青年である

『MANO』第十六号,P32
ポジティブな言葉の世界―「水牛の余波」を読む―
/樋口由紀子

からはじまり、それからも「書物によって自己を形成していったように感じる」「知恵を持って事物を想像、創造する」「虚構を立ち上げることによって思念を表出している」など、これだけで小池正博の川柳を安易にわかった気になるのはあぶないだろうが、しかし腑に落ちる表現が並ぶ。たしかにめちゃめちゃ虚構。その虚構ももうすこし細かく分析できるだろう。されてるのかな。おもろ。

※来週はもう書きません

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