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チェンソーマンの正体は西川のりおです。

いつかの正月の演芸番組でののりおよしおの漫才。掛け合いの途中で西川のりおが何かのセリフを言い間違えハプニング的笑いが起きたのだが、その後に別の番組で披露していた漫才でも、同じ箇所で同じ言い間違いをしていた。

なんや。ハプニングじゃないんかい。

しかし台本の上で成り立つ笑いである事は同漫才中の他の掛け合いと同じである筈なのに、その1くだりだけにこう違和感が残るのも不思議な話だ。思うに「台本から降りた」という錯覚を利用してまんまと笑わされた事に憤慨したんじゃないか俺は。
普段その力量を持って舞台上から観客を笑わせんとする漫才師、観客もこの関係性を了承してそこに居る。しかし何らかのアクシデント、例えばセリフを噛むとかネタを飛ばすとか、で台本を降りたその一瞬、この関係性は崩れる。客は演者からまろびでた一人の人としての顔に対等な関係性を感じ、そしてその滑稽さに対して能動的に面白さを見出す。

しかしのりおよしおにかかっては、これすら掌の上であり、それが悔しいんですわ。踊らされてたのが。カタコト日本語に味を占めたボビー然り、ほんまでっかTVでイジられるのに味占めた門倉先生然り。初めは純粋でも、そこに作為が交じり始めると笑いの主従関係のようなものが逆転し始めて、これが観客は許せない。おもんないとなる。

ぶりっこが嫌われるのも、人が純粋さを愛するがゆえだろう。作為が混じれば反動的に可愛くないとなる。
そして俺は特にこうした純粋さを意識的に愛している。

>すべて一途がほとばしるとき、人間は「歌う」ものである。~それが一番芸術に必要なのだ。
坂口のあんちゃんもこう言うている。純粋さを愛でて不純を嫌う。これは人の性だろう。まぁそれも外在的見え方の問題でしかなかったりするが、んなこと言ってると話が散らかるのでとりあえずほっとこう。

さて、チェンソーマンだが、いまいち俺は乗っかりきれない。
露悪的でナンセンスな表現。字面を見れば俺が好みそうだが、なんだかかんだかあんまりです。

多分やけど、作者自身、なにが面白いのか、どうすれば面白くなるのか、知りすぎてるような気がする。
だからそうした諧謔表現もなんだかあざといアジテーションに映る。ようするに「こうしたら面白いやろ?」というツボを心得すぎているように見える。脊髄剣とかマキホルとかね。
だからチェンソーマンにはこっちが面白がるための余白が少ないと感じる。作者の意図を離れて、こっちが面白がる隙がない。
そしてまんまと面白いと思ってしまうと、屈辱と共に冷めてしまう。
そういや呪術の最近のギャグ描写も、もっと世俗寄りではあるものの同様のあざとさを感じる。


別に「笑うー笑わせる」とか「面白がるー面白がらせる」みたいな主従関係の主導権を常に握りたいってわけではない。ただ「おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな」ではないけども、どちら側に身を委ねるかぐらいは自ら選びたいのです。



作家の言葉を引用するというレトリックを弄してしまった事の羞恥心はきちんと有ると、遁辞を述べておく。

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