「恐れ」で生きる?それとも「愛」?

SNSが成熟しきった世の中。

思えば誰でも自由になんでも発信できる時代。

BASEでも、活動を知ってもらうために、また説明するためのツールの一つとしてインスタグラムや、このnote、HPを活用して発信をしていて、

そこのご縁で広がるきっかけや世界もあって
おお〜すごいな〜!!と思っている一方で、

「食と農の学び」「アロマ」「寺子屋」「地域の学び舎」「多様な学び」
などというワードの関係で何かしらリンクされるのか?

ちょっぴり極端な発信をされている方からのアクションを
お受けする機会も
増えて来ました。
(BASEに出会ってくださり、見つけてくださりありがとうございます。感謝していますが、ちょっぴり気になる時があるので、書いてみることにしました。)

その、極端な発信とは
おおよそこういったものが多いです。


*政府の言うことが信じられない
*日本という国の法律がそもそも信用できない
*この国の農産物が信用できない
*病院は病人がいなくなると経営が成り立たないので
 病気を治さないんだ、騙されるな
*組織に縛られたくない
*社畜人生は嫌
*資産は自分で作らなきゃ・守らなきゃ
*情報は自分でとりに行かなきゃだめ
*お金がない人生は嫌
*自分で学ばない人は低俗だ
*オーガニック以外信頼できない
*加工食品は悪
*水道水が信用できない
*牛乳は飲んじゃだめ
*白砂糖は麻薬
*貧しいなんてだめ
*不登校はだめ
*公教育は終わっている
*学校はいらない
*子育てに縛られる人生は嫌





ずらっと一部並べてみたけれど・・・
かなり強烈だなぁ・・・(と私は思いました。)

何が強烈って、

「恐れ」のエネルギーすごいと思いませんか??

「恐れ」って、自分からも、相手からも、めちゃくちゃエネルギーを奪うって言いますもんね・・・涙

「●●しないと**になるよ」
「▲▲が嫌だったら○○しなきゃ」

という感じで、

「恐れ」をそのままに、モチベーションに、行動してしまうと
悲しくて苦しくて、続かないのがオチだったりします・・・
(「エネルギーが奪われる」というやつです)


ネガティブがネガティブを呼び、
どんどんネガティブなものにしかフォーカスできなくなるため
自分が許せず、周りも許せず、嫌悪感だけが増し増しになります。

で、その増し増しになった嫌悪感から、
さらに逃げたいという「恐れ」が湧き・・・

無限ループです。

やがて気力が枯渇してしまいます。(エネルギー切れの状態)


例えば
「苦手な数学を頑張る」という行動を例にしてみます。


「貧乏になるのが嫌なら、勉強していい大学いかなきゃ、苦手な数学やらないとだめだダメだ」という「恐れ」で生きるのと

「理科がめっちゃ好きだから、理学系の大学に行きたいな〜苦手な数学どうしよっかな」という「愛」で生きるのと

どっちが
「勉強」をサステナブルに続けられるでしょう?
より、自分らしく生きられるでしょう?



また、
「ダイエットして健康になる」という目標を例に考えてみましょう。

「痩せないと死ぬ、生活習慣病になる、だから、ダイエットしなきゃ、病気なんか絶対なりたくない!!!!食事制限しなきゃ、運動しなきゃ・・・あれは食べちゃダメ、毎日、**回筋トレしなきゃ・・・・」

と、「恐れ」バリバリで自分の体に向き合うのと

「今も悪くないけれど、あと○キロ痩せたら膝の痛みがよくなるかも〜、あの服がもっと着こなせるな〜」
「食事制限が楽しめるレシピってないかな〜」
「きついジョギングが苦手だな〜でも、ヨガはいけるかな」

と、自分の今も認め許した上で(「愛」ですこれが)
自分の体に向き合うのと

どっちが

「本物の健康」を手に入れて笑顔でハッピーで過ごせるでしょうか??



※もちろん、

「ストイックに生きることで自分を高めることが、私に与えられた試練だ!」

でビシバシ自分を鍛え抜いて生きること自体は、決して悪くないですよ。

そうやって魂を磨くんだ、を選ぶのも、もちろん自由なのだから・・・


問題は

「恐れのエネルギーそのまんま」で「ばりっばりに自分を縛ってしまう」ことではないか、と私は思っています。


恐れがある自分を、許し認めてみたり、
緩めてみたり、

恐れの根っこにある「本当の思い」や「自分の声」「願い」に手を当ててみたり、
ぐらいになれたら、
「えぇ加減」で「ちょうどいい感じ」な力加減で、ふわっと軽やかに
生きられるような気がしています。(私の見解です、あくまで。)

私も、学びの最中にいるんだけれど

*「恐れ」に気づいたら、ひたすら感じきる・見つめる・味わう
*じゅうぶん味わったら、手放す
*「で、結局私ってどうなったら嬉しいの?ワクワクなの?」と自分に聞いてみる
*具体的にイメージを描き、それが実現している前提で行動する・振る舞う

を、今コツコツ、ゆるゆると実践していますが

これ、ほんといい感じになる^^



いつもいつも
こんなに「努力しているはずなのに」「こんなにやっているのに」
なんでなんで・・・

*自分が好きになれない
*周りが無理解にしか思えない
*みんな敵だ!!
*(悪い意味での)孤独感が常にある
*いつまでも思い通りにならない


こんな気持ちがジトーーーーっと自分の心に覆い被さっているような
重た〜〜い感覚があるとき。

”私の行動の源って「恐れ」かな「愛」かな”

で、一度、自分へ問うてみるの、いいかもしれません。


ちなみに、
BASEは

何か特定の食べ物や信条に傾倒もしませんし、否定もしません。

牛乳は飲んでもいいし飲まなくてもいい(お腹壊さなけりゃいいんじゃない)

ジャンクフードだって笑って食べるし(もちろん頻度は考えます)

アロマの香りも、柔軟剤も、どっちも大好きです(時と場合で使い分けます)

世の農産物が信頼できないのではなく
作ることや、植物の世界を楽しみたいから菜園活動しています。

好きだから、アロマをやっています。
好きだから、カラーセラピーをやっています。

不登校だろうが
ヤンキーだろうが
成績ナンバーワンだろうが
スポーツ万能だろうが
そんなん、なんでも・どっちでもいいんです。

「貧困世帯の子をターゲットにしてますか?」
「落ちこぼれ支援をする理由はなんですか?」
「裾野を広げる取り組みなんですね」
「公教育に対抗するフリースクールですよね、応援します」

とかたまに言われたりしますが

そんなつもりで活動していません。

「線引き」すらした覚えがないです。

いいな〜と思う仲間どうし、どこまでもフラットに
つながって何か面白いことがやれたら
いいな〜

化学反応を楽しみたいな〜
お互いに成長したいな〜
子育てをともに楽しめる仲間が増えたらいいな〜

と、
ただそれだけです^^



いただいたサポートは、このnoteのおよび、私が代表をつとめる地域団体「食と農の学び舎BASE」の運営に充てさせていただきます♩