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中世ヨーロッパ史がおもしろい

最近読んでいる中世ヨーロッパ関連の歴史がおもしろいのでまとめました。
とかく聞きなれないカタカナが入り乱れる世界史ですので、人には「さん」をつけてみました。笑

キリスト教


ユダヤ教徒として生まれたイエスさん。この時代ユダヤ教は律法主義(法を守ることこそ重要)を唱え、民衆には終末思想が強まり、メシア(救世主)の誕生を待ち望まれていた。

イエスさんは律法ではなく神への信仰こそが大事であり、法を破る人にこそ神の愛が注がれると説いた。民衆はイエスさんを救世主扱いしはじめたので、いつか救世主が来るとするユダヤ教の癪にさわる存在となり、民衆を扇動してイエスさんをローマの地で処刑した。
イエスさんの死後、弟子たちがキリスト教を起こした。主な使徒はペテロさんでサン・ピエトロ大聖堂のピエトロはペテロに由来する。パウロさんはユダヤ人以外の宣教に熱心でもともとはユダヤ内部の改革だったイエスさんの教えを外に広げ、世界宗教として発展させる萌芽を作った。

イエスさん没後100年を経て、ローマ五賢帝時代にはギリシア・エジプトなどに広まり新約聖書もまとめられた。ローマにも信仰者が増加しはじめると、ローマの神を信じる人の間にと対立が生まれ、キリスト教は迫害を受ける(軍人皇帝時代、専制君主政時代)
中でもディオクレティアヌス帝さんは皇帝礼拝を強制していた。
しかし、コンスタンティヌス帝さんの時代になるとキリスト教は公認されやがて国教となった。


時代を経ていくにつれ宗派がわかれ、神学論争も増え始めていた。コンスタンティヌスさんは教義を統一して国内をまとめたかったのでニケーア公会議を開く。
主要なテーマはキリストさんは神そのものか、神が作った人か?
アタナシウス派(イエスは人でなく神であり父なる神、子なるイエス、聖霊は同質であるという三位一体説)が正式な教義とされた。それ以後はアタナシウス派が正統とされる。
そして、イエスさんは神そのものではなく神の子(人)だとしたアリウス派は異端と呼ばれる


ローマ帝国は東西分裂し、ゲルマン民族の大移動を経て、西ローマ帝国はフランク王国に変貌する。フランク王国のクローヴィスさんは、その地に馴染んでいたアタナシウス派に自ら改宗し自国の安定を図った。
一方東ローマ帝国もアタナシウス派ではあったものの、教義が分裂し、コンスタンティノーブル教会が勢力をもち、西のローマと東のコンスタンティノーブルという二つの教会が大きく成長した。

ローマ教会はゲルマン人社会に根を張り、コンスタンティノーブル教会はビザンツ帝国にあった。
聖像禁止令が東のレオン三世さんにより実施された。この世に在る物質で作られる像は神の価値をおとしめるという考えからであった。これに対して、西のローマ教会は聖像を通して神を礼拝するのだという考えで分裂がさらに深まった。

ローマ教皇領の誕生


そんななかローマという土地を挟んで南北に争いがおこる。
教皇はフランク王国に保護を求めた。
フランク王国には宮宰(王に代わって国を運営する人びと)があった。ピピンさんの父はイスラムからフランク王国とキリスト教を救った父カール=マルテルさんである。ピピンさんは宮宰身分から王になりたくて、ローマ教皇が恐れていたランゴバルト人討伐をし教皇さんに土地を寄贈した。ここに初の教皇領が誕生する。

ピピンさんは宮宰だが「実力のないものより実力あるものが王につくべき」と教皇さんのお墨付きをもらい、クーデターを成功させた。ピピンさんの子カールさんも他国の勢力拡大に脅かされたが戦い勝った。ローマ教皇レオ3世さんの時代、カールさんは冠をいただきカール大帝さんとなった。
しかし、ピピンさんの孫の代にはあっけなくフランク王国は3分裂になり、それにともない教会勢力、教皇勢力も落ちていき、風紀の乱れ、腐敗や汚職がひろまった。

教皇と国王の泥仕合 叙任権闘争

これまで教皇さんは、一番力のある王に保護者になってもらい、存続してきた。また王は自分の息のかかった聖職者を任命することで国内統制を図ってきた。しかし土地や財をもつ王が力では上になっていた。それが、
11世紀半ばから13世紀には教会が王権を超える力をもつにいたる。


カノッサの屈辱という事件では王ハインリッヒ4世さんが自分の権限でミラノ大司教を任命する。ところがローマ教皇のグレゴリウス7世さんはそれに反対した。
彼は聖職の任命は俗人である王がするのではなく、聖人がすべきという考えだった。俗人が任命するから腐敗や汚職で聖職の売買が横行してするんだという考えだった。
ハインリッヒさんは自分の権限を脅かされたので、グレゴリウスさんを廃位にしたが、グレゴリウスさんは逆に王を破門とした。ハインリッヒさんはそれほど諸侯からの応援がなく、窮地にたたされた。クリスマスの夜裸足でグレゴリウスさんのいる北イタリア、カノッサ城の前で謝罪した。これがカノッサの屈辱である。ここに教皇が国の王より強い権力をもつ存在となったのである。

その後ローマ教皇が指揮する十字軍遠征により、諸国王の威力に圧をかけ、東ローマビザンツ帝国(東方正教会)を助けて恩を着せつつ、キリスト教世界全体の主導権を握ることをもくろんだ。

叙任権闘争では、皇帝は聖職者の任命権を放棄するが、聖職者への領地の割り当てなどは皇帝がおこなう(ヴォルムス協約)と取り決めがされた。ローマ教皇は十字軍遠征の成功も手伝って力を増すが、栄枯盛衰5回目以降は不調となり教会勢力が分裂して弱体化し始めるた。ローマにあった教皇領を勝手にフランスアヴィニヨンに作ってしまうのがフィリップ4世さんだった。当時フランスはイギリスとの闘いで戦費が必要であった。そこで聖職者にも税を払ってもらおうとしたがボニファティウス8世教皇が猛反発したので、アナーニに三日間監禁した。(教皇は憤死する アナーニ事件)教皇が2人いる時代は40年続いた。

天国と地獄の間 煉獄


煉獄とは地獄に行くほどではないが、天国にも行けないもう一つの世界である。この期間を長く過ごしてから天国にいくのだが、この期間をは教会が発行する免罪符(証明書)で短くすることができるのである。ちょっとした罪などは教会で告白して悔い改めれば清められるという。悔い改めたら贖宥状が教会から発行される。発行にははお金をいる。さらには罪の告白なしに購入することもできる。地獄の沙汰も金次第というわけである。民衆はおそらく死後の世界に夢をみていただろうに。現世で金がなきゃ、来世天国にいけないなんて、では何のために現世の辛さに耐えて生きるんだろうね。

この記述の底本にしたのがこちら
世界史の教科書 



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