今思うと幼い時から私の周りには本があった。
父が初めて遊びに連れて行ってくれた場所も古本屋。
学校で一番好きな居場所も図書室。
陰気で鬱々としていた私の心の拠り所は本だった。

本の中の主人公の立場で見る物語の中の世界は
教室でひとり、目立つ子達にこっそり憧れて
でもそうなれる素直さは持ち合わせてなくて
それを家庭環境のせいにして
誰かを妬んで羨んでいた私には眩しかった。
こころが揺さぶられ、初めて心臓が高鳴った。

倒れている本を縦になおす、その些細な行動を
綺麗な言葉で尚且つ頭の中で本が縦になることを想像できるような
そんな文章を目にしたとき、胸がザワっとした。
紙が捲れる音、古くなった紙のにおい、夕陽が射し込んで埃がきらきらと輝く図書館、寝息をたてている学生、それを咎める訳でもなく起こす訳でもなく許容するわけでもなく淡々と仕事をこなす教室、履いている自分の靴音だけが響くくらい呼吸の音が響いちゃうのではと心配になるくらいの静けさ、
あの場所で過ごすことだけが私が息をできる時間だった。

本の中に、嘘の言葉はなかった。
友達になろ、トイレに一緒にいこう、あの先輩かっこいい、あの人がすき、あなたと親友で良かった、今度はあそこにいこう、教室で飛び交う言葉は嘘を含んでいた。
昨日まで仲が良かった、だけど今日からは仲良くない。
そんな危うさを含んで、それを私たちは皆分かっていた。
信頼して本音をぶつけることは綺麗でもないし、正しいことでもないし、好かれることでもなかった。
私は嫌われないように、グループを作るとき自分が余らないように、お弁当をひとりで食べてる可哀想な子にならないように必死だった。
なんてお粗末で惨めで可哀想で愛しい幼さだろう。
そんな小さな世界で息苦しく生きていた私に主人公は眩しかった。
そして、そんな私を優しく許してくれた。
そんな私でさえも、表現する言葉や文章が描かれていた。

大人になって働き、いつの間にか本を読まなくなっていた。
学生の時より更に嘘を隠すことに長けて、それを本音と本人自身も思い込むような大人の世界で私は荒んでいった。
自分の感情を表現する言葉さえ、私は無くしていった。
私は、本を読み、共感し、自分の人生と照らし合わせ、考え、分析することが大好きだった。
その時、私は私を理解することができたから。
防御ばかりで傷つくことが怖く、誰よりも人を信頼できず本音を言えない、自意識ばかりの私を。
そんな私でもいいよと受け入れられたから。

そんなことも忘れていた。
私は私を無くしていたことさえ忘れていた。
無くさないように守っていたのに。

久しぶりに読んだ本は言葉の量が凄く、頭をたくさん回転させた。
とても刺激があった。
読んで、胸が震えて心が揺さぶられて複雑な気持ちになった。
それは読んでいて、あまりにも自分と似ていてその行動や姿が恥ずかしくて目を背けてしまいたくなる気持ち、共感し共に怒ってしまう気持ちなどの集合体だった。
私は、その集合体を感じて苦痛と共に安堵したし、楽しかった。

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