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1、ジャンヌ・ダルクの築いたお城 蛸

※このエッセイは、まだ私が憎しみを手放せなかった2017年に、あるサイトの隅っこに書かれたものです。いま、私は自分の生まれについて、悲しい家族の成り立ちについて、「受容とゆるし」の期間に入っています。だからこそ、きちんと公開できる時期がきたように感じます。2020/12/19 作者※

おととい、あるいてほどなくある実家の父に
「婚姻届けのサインをもらいにいっていい?」
と電話をした。
「いま、選挙期間中だから忙しい」
私は黙った。それで、父は慌てて
「時間がある今日中にサインしにゆく」
「ありがとう」
私は笑顔で答えた。電話を切ってから涙が垂れた。こんな時すら、父は選挙を優先するのだ。

 結局父に会ったらなにをしてなにをいうかわからなかったから、私は顔を合わせることをなく婚約者に出てサインをもらってもらった。やはり私は活動の次の存在だった。母が死んだことでだいぶ順位はあがったが、そんなことはもうどうでもいい。今日私はあの家から解放される。

 母は数年前の11月28日に死んでくれた。何年に何歳で亡くなったのかは忘れた。そのうちに思い出すこともあるだろう。
 終戦の年にうまれたのはおぼえているから、2017年のいま生きていれば72才だ。固執する面と関心がない面がある。ふだん旦那の前では「あの女」と呼んでいる。
 あの女には民青で活動したときに通り名があった。「同志社大学のジャンヌ・ダルク」という。

 民青と敵対している勢力に属していた平成うまれの旦那が京都大学で活動していたとき、
「同志社大学にはジャンヌ・ダルクがいて、民青のやつらをオルグ(勧誘)しようとしてジャンヌ・ダルクに逆オルグされた仲間が何人もいた。だから、同志社大学には近づくな」
と同志にいわれていたという。
 あの女から留年したという話をきいたことがないから、1967年には卒業していたはずの女の伝説が、2013年頃まで残っていたということになる。

 私も家の方針で高校まで民青をやっていた。班長までやっていた。違和感を覚えて辞めようとしたとき、ひきとめがすごかったのと、
「なにか悩みはありませんか」
という人が来て、
「これじゃ宗教と変わんないな」
と嫌悪感を覚え、それから幾度も両親に勧められたけれど、笑顔で逃げた。……私のへその緒や母子手帳すら残っていなかったのはきっとそのせいだ。
「この思想に同意しないものは、いないものとする」
共産主義国が崩壊に向かうとき、独裁者によって大量虐殺が行われることが多いが、私の存在は母によって抹殺されたのだ。

 いま私は完全なノンポリである。旦那もいろいろ事情があって、その民青の敵対組織はすこし前にやめていた。あそびと転職活動を兼ねて都内に飲みに来て、店員さんに昔活動していたころを自慢げに話していた旦那に声をかけられ、
「私ノンポリなんで」
ととりあえず言っておいて、旦那の
「ここでノンポリという単語を聞くとは」
で、盛り上がった。

 私には瘢痕状になった腕の傷あとがある。瘢痕状、というのは、傷に傷を重ねて、もとのなめらかな皮膚がまったく見えなくなっている状態のことをいう。まるでしわしわのちりめんのようだ。傷あとは脚にもある、首にもある。そっちは、恐竜にひっかかれたあとみたいになっている。

 「傷あと」であることを私は誇りにしている。

 精神疾患があって、幼児期からの虐待を受けた人・レイプを受けた人・あるいはナチス収容下の捕虜、そうしてベトナム帰還兵にみられる複雑性PTSDという症名である。
 
  「これ、これ。見て」
精神疾患込みで私を好きになってくれる人でないといけないから、会ったときすぐに私は腕の傷あとを見せた。それから首あとを見せた。そのうちに脚のも見せた。
(普通死んでるだろ)
というのが旦那の感想だったらしい。それでも生きている私を、旦那は、
「人間こんなになっても生きてられんだな」
と、よくわからない感動を覚えたという。旦那のいいなずけは東日本大震災のとき、津波に飲まれた。漁村の網元の娘だったそうだ。一族ごといまも遺体は見つかっていない。
「あのいいなずけなら、泳ぎも達者だからどっかで生きているかもしれない。たくましい子だった」
というのが、
「こんなからだになっても生きている子」
という私にスパっと切り替えられたようだ。

 それから中距離恋愛をしてお互いの家を行き来していたころ、
「あんたんとこの活動はどうだった」
とか、そういう話しをたびたびした。
「うちの母、同志社大学のジャンヌ・ダルクっていうの。民青でオルグした父と一緒に反戦活動とかめちゃくちゃしていた人よ。日本共産党から市議会議員の立候補もしたこともある。いらだちが凄かったのか、私、ほんとうに罵られまくっていたの。"あ、この女、私をストレス解消道具にしてやがる"って小学生で分かっちゃったときがあったんだよね。小学生が分かるんだから本当よね。その前もそれからもいろいろあってさ、それで私この首と腕と脚で、症名は複雑性PTSDよ。笑えるよね。でも通り名は聖女の名前なんだよね」

「お前あのジャンヌ・ダルクの娘か!?」
 そうして伝説のことを話してくれた。

 私が本当に旦那に惚れたのは、あの女を知っているというその瞬間だったと思う。因業なものだ。

 おさないとき、スっ転んでよく怪我をした。
 だいたい、放置だった。病院は資本主義社会の象徴ということで基本的に連れていかれなかった。全身にできた水疱瘡は毛抜きで一個ずつ膿を取り去るまでえぐられた。背中にできたヘルペスは一週間放置され、痒みと痛みで熱を出してソファで寝転んでいたら、
「良いご身分だねェ」
とあざ笑われる。
 血と膿、罵倒と嘲笑が私の小学生時代の記憶だ。

「この痛みは痛みじゃない。私の皮膚に起こっていることじゃない」
皮膚感覚を自由に切ることができる能力を得た分、現実感を喪失することがおおくなった。

 そうして私は、自分のかさぶたをはいではよく食べていた。傷が治りきるまえのじゅくじゅくを引っぺがして、またあたらしい赤いのが滲む。また真ん中のほうからこぎたないうす桃茶に盛り上がって、かたまってくる。
 自分をたべるのが好きだった。自分で自分の傷を愛していた。そうでないと、私は私の存在を感じることができないのだ。

 中学生の時、萩原朔太郎の詩を読んだ。どうしてここに私の心情が綴られているのだろうと不思議だった。長いが引用する。

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「死なない蛸」萩原朔太郎
ある水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた蛸が飼われていた。
地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻瑠天井の光線が、いつも悲しげに漂っていた。
だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れていた。
もう久しい以前に、蛸は死んだと思われていた。
そして腐った海水だけが、埃っぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまっていた。
けれども動物は死ななかった。
蛸は岩影にかくれていたのだ。
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そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、恐ろしい飢餓を忍ばねばならなかった。
どこにも餌食がなく、食物が尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。
まづその一本を。
それから次の一本を。
それから、最後に、それがすっかりおしまいになった時、今度は胴を裏がえして、内臓の一部を食いはじめた。
少しずつ、他の一部から一部へと。
順々に。
かくして蛸は、彼の身体全体を食いつくしてしまった。
外皮から、脳髄から、胃袋から。
どこもかしこも、すべて残る隈なく。
完全に。
ある朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空っぽになっていた。
曇った埃っぽい硝子の中で、藍色の透き通った潮水と、なよなよした海草とが動いていた。
そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかった。
蛸は実際に、すっかり消滅してしまったのである。
けれども蛸は死ななかった。
彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。
古ぼけた、空っぽの、忘れられた水族館の槽の中で。
永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――ある物すごい欠乏と不満をもった、人の目に見えない動物が生きていた。

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自分の血肉や膿を食べ、舐めることでしか自分の存在を感じられなかった私は、この蛸のように、もう誰にも知られることなく、消えて死んでしまっているのかもしれない。いまだそんな気がする気がある。

それでもなお、生きている。打ち込んで反映される文字によって、私はそれを知る。

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