利害調整の難しさ

まだ会社員ではないけれど、ビジネスのそれとは比べ物にならないほどだけど、未熟者なりに「他人の指摘をうまく取り入れる」ことの難しさを感じている。

憧れだった東の果ての大学の地理ゼミで卒業レポートを書いている。楽だろうと思っていたが、案外だるくて、少し根を詰めるとかなりの体力が消費される。なんにせよ、文章の羅列は得意なのに、レイアウトが下手すぎる自分を痛感した。
また、私は熱を入れすぎて1人浮いているのではと感じつつある。他の人のページには行間やスペースの「ゆとり」があるように感じられた。しかし、私は文を書きすぎて圧迫感があるように主観的には見える。客観的に見ても「これどうなんだろ?」と思う。
それでも、社交辞令かわからないが「すごいね」と褒めてくれる人もいた。人としてもそうだけど、さすが教職課程だけあって「教師の鑑だ」と思ってしまう。ASD気質を見抜かれてるわけではないと信じたいが、そんな私に対してああいう褒め方ができるのは本当に教師向きだし、そんな人に教えられたかった気もする。
とにかく些細な褒め言葉が最近はとても嬉しく感じて涙が出そうだ。

卒業レポートの発表を全3回中2回やってきたが、いくつかの指摘が飛び出した。
直せるものは直したが、一つだけ、入れ込み方に苦労したところがあった。これこそ「人事には話せない『あなたが壁にぶつかったこと』」なのだが、なんとか注釈に織り込む形で許していただこうと考えた。取捨選択ができない私なりの、現時点で最大限の工夫だ。

これが「利害調整」とやらなのかと考えた。いろんな人の改善案を聞いて、自分なりに工夫を凝らして再表現する。ビジネスのそれとはまた次元が違うけど、根本的なところは似通っていると世間知らずなりに感じた。
まあ「折衝」とも言えるのか?それはちょっと違うかも。頑なな人を説得したわけではないし、むしろこれからだしそれは。

来週発表、ほぼ仕上げろとの指示。無理だぁ〜と言いたいが、弱音を吐かない。そういうこれまでのイメージを払拭したい気持ちでいるから。
とりあえず、迷走しかけてるけど、人の意見を取り入れつつも「俺の完成形」を最優先にして「俺なりの卒業レポート」を目指すことにすると、改めて方針を固めた。

「俺が、俺が」だけではダメなんだけどね。

でも、迷走し出すと他人の手法が絶対解と思い込んでしまって、「そこはそうした方がわかりやすいのかな」と思ってしまう。そうすると、人のやり方を取り入れすぎてごちゃごちゃのレポートになってしまうだろう。柔軟すぎても「自分の意志がない奴」のレッテルを貼られてしまうだろう。

なかなか難しいね、でも感心したり新鮮なことの方がよほど多いよ。柔軟性と応える力が磨かれる。

「やりたかったこと」こそ、全力で。
「楽単でなんとなく」でも、やれるだけやろう。Cをとれればあんたの勝ちや。

やるしかないっすね、レポートを楽しもう。


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