何もできないときに文章に向き合う意味

批評性というのは精神なので、どんな表現にも宿ります。しかし、批評をするということであれば、それは文章を書くことでなければなりません。批評とは文章のことであって、ちょっとしたコメントやトークが批評的であってもそれは批評そのものではない。批評的な作品があっても、批評の身体たる幹は文章なのであって、それも一定の分量がなくてはならない。どれくらい短い散文が(詩ではなく)批評として成立するかはわかりませんが、批評は文章芸術です。なんで文章でなければならないかというと、文章以外の芸術形式、たとえば漫画や映画、音楽、身体芸術、美術などは、それ自体が自律的だからです。だから批評ではなく批評性ということになります。文章を使ったときだけ他により掛かるものがなくなり、批評性がむき出しになり、批評になります。批評は作品について語ることがほとんどですから、何かに寄生していると思われがちですが、そのように思えるのも批評がむき出しの批評性だからであって、小説も含めたその他の芸術形式の場合、自分自身が作品であることに疑問が生じる余地がないため、何かに依存しているという指摘が始めにくることはありません。もちろん批評(文)もまた紛うことなく一個の作品に違いないのですが、批評は自律的ではなくて従属的だと思われがちですし、そのような用いられ方も少なくないわけです。そして、その外圧自体が批評が成立していることにより生じる逆風なのです。

もちろん散文であれば何でも批評になるわけではないというのもその通りではあるのですが、批評的な文章と批評の間には他のものと比べれば僅かな差しかありません。したがって文章と向き合うことは批評と向き合うことの王道と言えます。

さて今どきそれなりのボリュームの文章を自発的に書こうなんて思う人はとても少数派ですから、概ねそこでは何かしらの理由があると思います。興奮したからとか、いてもたってもいられないからとか、モヤモヤするからとか、どうしようもないからとか、本当に様々な感情の動きがありえます。中でももっとも切実なのは何もできないけど書きたい、というときです。このとき、「書きたい」という気持ちすらも括弧に入っている可能性があります。何を書いたらいいかもわからない(けど何か書きたい)、そもそも何をしたらいいかもわからない、何もできない、何もない……。そういう虚無の根源まで行くと、まあ薬を飲めやとか運動でもしろやとか、そういう話に普通にはなるわけですが、外在的なあるいは薬物的な対策というのは、根源的ではあるけれど本質的ではないわけです。この虚無感の正体が脳の神経物質の伝達異常だと言ってしまえばそれはその通りなんですけど、その異常によって現に現前している映像や気分、思惟というものがあります。物質的対応はそれらの全てが迷いだ、まやかしだ、と言うわけですが、そう思えない人たちがいるわけだし、常に物質的干渉ができるわけでもない。たとえば夢は醒めたらなかったことになるまやかしですが、もしも見ている夢が長いものだったり、ましてや醒めないものだったりしたら、それは軽視できないセカイではないでしょうか。批評はその記述であり、探索のためのツールです。それは偶に自己の治療的効果を持つこともありますが、それすらも目的ではない。ただ、何かが明らかになったり、謎が深まったりします。そしてそれこそが文に向き合うことの効用です。だから、仕事や他の創作活動に向き合ってももちろんいいのですが、あなたがなぜか文章に、そして批評に惹かれてしまうのであれば、そこには意義や必然性が潜んでいます。

普通の人は書きたくても書けないことで悩んでしまいます。しかし、これは作家のスランプとはちょっと性質が異なっていて、作家の場合はネタ切れで書けなくなるのですが、とりわけ商業的な創作業をしているわけではない人にとっては、絶対に書けるネタがストックされているはずです。文章に向き合うとはこのように一種の自分内ネタ掘削を行う作業でもあります。もしも興味がある人がいれば、そのうち僕なりの批評文の書き方をまとめられればと思っていますが、とりいそぎここで言いたいのは、まず書いてみることが最大の準備作業だということです。書くための準備が必要なのではなく、書くこと自体が、書くことの準備作業になります。そうして自分の中で終わったなというところまで行き着いたとき、運が良ければそれが作品になっていることがありますが、運が悪かったとしても、そこで批評が始まります。そこで書かれたものを捨てることが始まりになります。

捨てるといっても書いたものをすっぱり忘れろという意味ではありません(捨てた方がいい場合もありますが)。そうではなく、書くことによって炙り出されたものをもとに、批評を(再)構築することが書くことだ、という意味です。僕などはほぼ全ての場合で思いついたことを思いついた順序で書いていくのですが、そのような思いついた順序が適切な場合もある一方で、書き上がってみると、書かれたエレメントが「別な秩序」を求めているということを発見することがよくあります。そこで地図を書き直すわけです。そうすると、最初の冒険で探索した成果をもとに、本当の道筋を見出すことができます。

このような整理には箱庭療法的なところがあり、ゆえにセラピー的な効果を発揮する場合があるわけですが、病んでいるみなさんには朗報で、批評は、自分を癒やすために書かれることがある一方で、さらに深く自分を傷つけるために書かれることも可能です。だから批評は危険な営みであって、criticの二つの意味、すなわち批評=危機ということがより実感されるようになるわけです。いずれにしても本当に重要なことは、治癒も負傷も結果のバリエーションであって、批評によって起こることの本質は変容だということです。
だから、批評文の形を取っていても、変容がないものはつまらないことが多いです。面白いものを書こうとする上でも、変容の契機に敏感であることは大切です。そのためには、そもそも変容が本質的に重要なことであるのを知っておくことが役立つでしょう。

作品にかこつけた自分語りは批評ではないーー。ちょっと批評について知っている向きからはそういう指摘もあるかもしれませんが、それは作品と自分が結びついていないからだと思います。もっといえば、この作品が自分にとって大切だったということを軸に起きたことを説明しているだけでは批評にはならなくて、そこに変容の契機がなければ、書かれている文章も静的な説明に留まらざるを得ません。そして、その意味でいえば、好きなもの擁護は僕の見立てでは十分に立派な批評と足り得ます。まあ、他にも色々あるのですが、批評は、そして文章に向き合うことは本当にいいもので、そして危ないものです。ですから、虚脱の泥濘に足を取られているときほど、あなたの助けになってくれると思います。


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