自分の中に制約を設ける

自分の中の制約を取り外そうと言っておきながら、今度は反対の話だ。

無自覚な制限は自己を袋小路に追い込むが、逆説的に、自分が与えた自覚的な制限は、現状を打破したり、思わぬ成果を呼び込んだりする。

これはいくつかの切り口で言えることだが、たとえば制限とは「問題設定」のことであって、問いがなければ解答はできない。しかし、一般に、問題に答えるよりも問題を作ることの方が難しい。コミュニケーションのレベルにおいて、解答には問いという手がかりがあるが、設問のための手がかりは別なところに探さなければならない。

クローズドクエスチョンに対するオープンクエスチョンもこれに似たところがある。はい・いいえ的な二項対立で答えられる問題は答えやすい。選択肢が多かったり、選択肢がない・または自分で作らなければならない問題に答えることは難しい。文学は好きですかと言われれば、はい・いいえで答えられる。好きな文学作品は何ですか、と聞かれれば何かを出さなければいけない。質問の抽象度が上がれば解答の難易度も上がっていく。クリエイティブな問題設定になるほど案を出すのが難しく思われるのは、問題設定の抽象度が高いからだ。

この意味で、制約を与えるとは抽象度を下げるということであり、今風の言い方をすれば、解像度を上げるということである。

佐久間宣行は「企画は制限も条件もない「なんでもアリ」で考えるほうがむずかしい」「だから企画を考えるときはあえて条件をつけて、自分の脳を締めつけよう。企画は圧をかけたところから飛び出てくるものなのだ」(『ずるい仕事術』155)と述べている。

これは経験的にもそうだと言えることだが、手がかりなしで思考をするということは難しい。もちろん人間の心というのはやかましいものだから、ぼーっとしているだけでも色々なことがノイズとして生起するが、それでもなお多くの人は何もない状態は手がかりなしだと思うだろう。ここで物を言うのはまさに言語化の能力なのだが、それはまた別なところで。

問題設定とはまさに言語化された制限・条件のことだが、このような言い方をすると、テストでそうであったかのように、かなりハードな問と解の形式が想像されると思う。それはそうなのだが、他方でソフトなコンテクストというものもある。

たとえば「店舗スタッフの業務効率化を考えたい」とする。これ自体は、この段階ではやや高い抽象度の問いだが、問題の方向性は明確なので、ハードな問いということにしておく。ところが、その業務に対するやる気が出ないからなんとかしたい、という別レベルの問題があったとする。こちらが(深刻ではあるが)ソフトな問いだ。自分の業務効率化をなんとかしろみたいな話であるが、こちらはより周辺状況が抽象的で、いかんともしがたいみたいな気持ちになってしまうのではないか。

こういうときにも制約が役立つ。問題設定は制限・条件の一つの形だが、イコールではない。佐久間が「圧」が重要と言ったのは、問題を与えると答えやすい(解答という動作が可能になる)というような意味合いというよりも、そもそも制約を与えると発想が豊かになる、という意味合いである。制限・条件は、それが無目的(ランダム)に与えられたものであってすら、意図せぬ効用をもたらす可能性がある。

無目的な条件としては、例えば、30分以内になんでもいいから出してみる、とかいう「時間制限」や、思いつくまでこの喫茶店を出れないとかいう「場所制限」など、色々出すことができる。あるいはアイディアに「自分の趣味は一切含めない」「自分の趣味100%の材料から考える」とかいう「発想制限」などもありえるだろう。

こういったものの効用は、無意識に干渉することができることだ。人間は言語化されていない様々な要素のせめぎあいで実存しているが、無目的であったとしても、このような制限による分節を加えると、無意識の布置が変わり、新しい運動やその契機が生まれる。刺激と言ってもよい。見えないものに影響を受けているので、見えないなりに見えないものに干渉する手段が必要なのであり、また有用なのだ。

こういった制限は「かたち」を与えることとも言える。芸術学者の平倉圭にならって言えば、まさに『かたちは思考する』ということだ。時間制限のような純粋に視覚的でないものにもそういうところがあり、区切りによって非視覚的なかたちが与えられ、それが次なる思考を促す。

こういった制約は手段であり、思いついたときに行えばいいものだが、もしその制約を継続的に行うのであればそれは習慣となる。習慣化した自発的制約は、仕事や生活を絶対に豊かにしてくれる。絶対に。

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