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頼むから帰ってきて日記④

かかりつけのクリニックに到着したところで「嫁が逃げたことも伝えなくては」と思いだした。このクリニックにはかれこれ10年通っている。

受付は慣れたものである。

「よ、やってる?何だい月の初めだってのに待合室にたった3人しかいねえじゃねえか。かあっ、どこもかしこもシケてんね、まったく」と小粋な口ぶりで以ってカウンターに保険証と診察券を放れば顔見知りの看護師も負けじと「なに言ってやがんで、てめえみてえな疫病神が毎月来やがるもんだから客足が遠のいちまってこちとら商売上がったりだい、ちきしょうめ」と応酬、みたいな幻聴が聞こえてこないよう念のため、通っているのが、このクリニックだ。なぜ幻聴をべらんめえ口調で想定していたのかはちょっとわからない。これも医師に聞こうと思う。

無理やりオルゴール調に押し込んだため音の数が間に合っていないJ—POPがひたす待合室、その隅に小さな本棚があり『ぼのぼの』の隣に『ずっと喪』が置いてある。刊行された時、診療の参考にもなるだろうと医師にプレゼントしたものである。感想を伺えば

「まっっったくわからなかった!わっからなすぎてびっくりした」、だった。

普段、訥々と話す先生がこんなにも「っ」を多用するとは、よっぽどわからなかったに違いない。何だか申し訳なく感じたが、自著を参考にしていただければより適切な診断をして貰えるのではと僅かながら期待するも、その後も「わっからなかっった!1行目からわっからない!1行目がわっからないから、2行目はもっっっとわっからない!」、と続き結局、その日の診療は先生をいたずらに混乱させるだけで終わったことを思い出す。

目線を本棚からずらし、今日の診察のことを思案する。

診察といっても、ここ数年は殆ど近況報告をする程度だ。

ことJ-WAVEの仕事を始めてからは先生がJ-WAVE派ということもあり互いの「クリス・ペプラー観」を交換する時間を診察と呼んでいる。

さて今日はどう話を切り出したものか。つい先日、結婚したことを報告したばかりだというのに、いきなり「妻が帰ってしまいまして」とアクの強い設定から入ってしまえば、「わっからない!一言目からわっからない!」となってしまう可能性がある。俺は構成作家だ。ここは例のごとく近況報告から始めべきだ。それも先生が喜びそうな、治ろうとする意志を感じさせるものがいい。そうだ、断酒を始めたことを報告していなかった。これから切り出して、その理由として「妻が実家に帰ってしまったから」、という段取りを踏み、今日の報告を切り上げることにしよう。

名前が呼ばれスライド式のドアを開けると、丸メガネの先生が丸椅子に座るよう促す。ファイル、棚、壁時計、全てが丸みを帯びている。随分と直角の少ないこの小部屋に10年、通っている。

「それで、最近はどうですか」

「そうですね、ああ、酒をやめました」

「えっっっっっっっっっっっっっっっっ⁈⁈⁈⁈⁈⁈」

おびただしい促音。人は「っ」の勢いだけで喉仏が揺らせることを知った。

一体、何がそんなに驚くことがあったろうか。

「お酒っっっっっっっ、飲んでったっのっっっっ⁈⁈⁈⁈⁈」

本来、音のない「っ」が待合室まで届いてしまいそうだ。

その後、平静に戻った先生が訥々と説くところ、そもそも俺は酒など飲んではいけない人間であり、その前提でこれまで10年近く問診をしていたらしい。

そういえば、初診のときはまだ未成年で、問診票の「飲酒量」の欄も空白で提出していた。この10年で飲酒のレベルが0→アル中→0とV字を描いていたことなど先生はつゆ知らなかった、ってわけかい。かぁ、どおりで治らねえわけだ!参ったねどうも。酒をやめるためにゃ走るのが1番って話じゃねえか。こいつぁちょうどいい、嬶の言いつけとも合ってら。そいじゃ、ちょっくら走ってくっから!なに、お金?診察代?ちょっとわっっっからないわ!わっっっからないわ!


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