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日本という国の始まり その4

今回の内容は「日本という国の始まり」にふさわしくないかもしれません。

 邪馬壹國研究会と銘打って、毎月一回定例研究会を持っています。もう始めてからずい分になりますので、以前から聴講されている方は、もう聞き飽きたと言っていただけるかもしれません。今月は、斉藤普春という明治時代の神官・国学者の著書である、「阿波志料 践祚大嘗祭御贄考」を紹介します。冒頭の祝辞は、小杉榲邨(こすぎ すぎむら)が書いています。

文系の方なら、小杉榲邨をご存じの人も多いかと思います。しかしながら、私は理系であったので、阿波古代史を研究するようになるまで存じませんでした。若い頃、藩校で漢学を学び、徳島藩士・池辺真榛(本居内遠門下)に教えられながらも、安政時代に江戸にのぼります。勤王論者であり、幽閉された経験を持っています。明治初期に教部省に出仕、明治10年から文部省、修史館掌記とあります。東京大学で古典を教えていました。また東京美術学校の教授も兼ねています。著書として「徴古雑抄」が有名です。明治43年、75歳で没しています。内務官僚、国学、歴史研究家で、明治の文人としては一級の方であったようです。

さて、研究会では本題の前に少しおさらいをしています。今回その前に一言付け加えました。以下のスライドです。


そうなんです、邪馬壹國纏向説や邪馬壹國吉野ヶ里などという妄想・噴飯説を論戦する気は毛頭ないのです。論理的な考察ができる学者の方なら、とっくに分かっていることでしょう。が、世間受けとかメディアノリが良いということで、卑弥呼の鏡ががが・・とか騒がれる度に、心ある学者はコメントを避けて通っている節があります。

例えば、魏志倭人伝には距離方位を当時としてはかなりな精度で示してあります。ではなぜあちこちに邪馬壹國が存在するのか?それは、「東」と書いてあるけどほんとうは「北」です、という類の解説がまかり通っているからに他なりません。ばかばかしくて付き合っておれません。

調べてみると、当時の中国の学者のサイエンスレベルは高く、十分計測できたことがわかります。通商の為、海路で大秦国(ローマ帝国)に到達していたことも後漢書には記されています。ですから、遠く離れた日本というのはおかしいのです。すぐお隣なのです。日本までの距離など測れるはずが無いという思い込みで論ずることは、自分の無知を吹聴しているようなものです。

「その山丹あり」とありますが、三世紀の水銀辰砂鉱山遺跡は目下、加茂谷にしか発見されていません。また、加茂宮の前遺跡を見れば、なんたるかは一目瞭然。池辺真榛先生の主張をまともに聞けば、阿波説・・説とかいうのでは無いのが良くわかります。何をおいても、践祚大嘗祭を俯瞰すれば、疑う余地はありません。

よって、邪馬壹国比定地論争は、これらの知見の無い人達にまかせることにして、研究会では、践祚大嘗祭の由加物等々をもう少し深堀してその品々の意味を考えてみたいと思います。

(下書きと投稿を間違えたようです。書いたものが消えておりました。気を取り直してと思ったのですが、気力が湧きません。申し訳ございません。)

今回のレクチャー用資料は35P程で、内容の半分は、御贄考と延喜式の関係個所となっています。

今回の研究会の為の資料



付録)2019年度の定例研究会で示した図を添付しておきます。(御殿人の位置が良くわかると思います)

神々の系譜

2019年度は、践祚大嘗祭に関して一年かけ、詳しく解説しました。天皇と御殿人との関係が分かっていただけたと思います。途中、九州講演の報告会を挟みました。小川秀樹氏(行橋市教育委員会参事)に神籠石の講演をしていただき、みやこ町に古代の幹線道路があったが故に迎撃要塞(白村江の戦いの敗北を受けて)が必要であったことが良く理解できました。この史跡が、三世紀から七世紀にかけて、つまり魏志倭人伝の言う女王国に至るコースに重なるのが面白いところです。今後、みやこ町も行橋市も考古資料が沢山出て、現在の通説とは異なる展開があろうかと思います。楽しみなところです。


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