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日本という国の始まり その2

前回は、麁服調進まで書いた。

が、これは少々難しいので、解説が必要だろう。民族学者の折口信夫が「大嘗祭の本義」という秀逸な文を書いている。が、惜しいかな今一歩真実に届いていない。天皇霊継承が本来の意味であるという、本義に近いところまで到達しているだけに惜しい。彼が、江戸期の池辺真榛の歌を知っていたら、きっと間違いはしなかっただろう。

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近いうちに本当の「大嘗祭の本義」という本を出そうと準備しているところだ。多分、例によって共同執筆になるだろう。神話部分の推論は、阿波古事記研究会の三村隆範副会長にお願いするとして、なるべく現実に存在する物から話を組み立てて書いてみたい。(前回、「邪馬壹(やまと)国は阿波から始まる」と題して、三人の共著で、原田出版から阿波史学の入門書を出しました。売ることに力を入れていないものの、Amazonでも購入できるようにしたので、気になる方は買ってください。)しかし、こと今回のテーマに関しては、前回の本のように、確実にエビデンスを積み上げて論じる事は至難の業であろう。

三原じゅん子ユーチューブ

国会議員の三原じゅん子氏も平成28年10月13日の参院の予算委員会にて、大嘗祭とは「天皇霊の継承」と明確に答弁している。彼女が本義を明確に理解していたかは不明だが、この点、間違ってはいない。

国会答弁議事録 三原じゅん子氏

践祚大嘗祭は天皇陛下一生一大の大イベントなのだ。そして、なんと阿波国からの麁服無しの式典では、一生半帝と揶揄されることになる。徳島県の山の中のまたその山の中、平家の落人が恋人達と生き別れになった峠を越えて踏み入った地に三木山がある。千メートルの山々に囲まれた中に、ポツンと中央にある五百メートルほどの山だ。この山こそ、第一話冒頭の写真にある、天皇霊を宿す聖なる山、三木山だ。東面して見える二つのピークの左側は、東宮山と呼ばれる。日本は、太陽信仰の国、東にユートピアが存在する。よって、跡取りは自分より東に住まわす。天皇の跡取りを東宮という所以だが、徳島にはこの風習が残っている。新築時親より東に家を立てなければ逼塞すると云う。東宮の西にあるのは御所なのだ・・・。

さて、話を戻そう。古代はどこで麻を栽培していたのか不明だが、阿波忌部所作とあるから、徳島のどこかで栽培していたのは間違いない。そして、紡いで糸にし、布に織り、再び三木山に持ち込み安置する。その安置の式典の間に、布は御霊を宿すのだ。そうして、大嘗宮へと運ばれて、一晩新天皇が添い寝をすることで、天皇に御霊が入る。これが、大嘗祭の見えない部分の流れだ。

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式典における配置図が、東南に向いているのは、京都だから。東京ならば、南西を向いている、つまり、一連の式典をお伊勢さんに見守ってもらっているに過ぎない。さて、大嘗祭の悠紀殿内部の配置図を上に示した。神座と書かれたところは、ベッドなのだが、その上に御衾とある。

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邇邇芸命が天孫降臨する折に、真床覆衾で包まれて降臨したことにちなんだ物だが、ざっくり平たく言えば、生まれてまもない赤子であったので、産着に包まれていたということだ。その布もきっと麻で出来ていた事だろう。今も、赤ん坊が生まれたら、里から産着を持って行く、千年、二千年たってもやることは同じだ。この式典における逆枕も、天皇幼少期にする着袴の儀も、古事記天孫降臨にまつわる史実を模しているに過ぎない。

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返す返すも惜しいのは、徳島藩士・池辺真榛という天才が若くして亡くなったことだ。一説によれば、毒殺とも言われるが、国学のみならず、工業技術においても造詣深い彼は妬みの対象となり、幽閉の折に毒を盛られたのだという。文久三年(1863)、三十四歳で没する。歴史にIFは無いというが、仮に彼が天寿を全うしていたなら、間違いなく日本史は変わっていただろう。本居内遠(安政二年没)の落胆はいかばかりかと、せめて先に鬼籍に入っていたことが救いである。真榛の歌をみれば、徳島こそ日本文化が始まった所だと、主張しているのが、理解できる。古語拾遺新注も書きあげるも、歴史からは忘れ去られてしまった。今の日本史の骨は、新井白石-本居宣長の説をベースに、明治の国学者によって創作された。しかし、宣長は言う、「力の及ぶ限り調べ研究したものの、至らない点も多い。が、後世の研究者が自分より素晴らしい解釈をし、真実に近い日本史を仕上げてくれるだろう」と。でも、そうはならなかった。彼らの説が全てになって現在に至っている。

冒頭にある古文書は、今風に云えば、践祚大嘗祭における麁服の督促状だ。官宣旨(案)という、この短い文章によって、麁服が由加物の中で特別な物である事を示している。口伝ではあるが、天皇自ら、先例にならって早く期日までに納品してくれと頼みこんでいるのである。(写真は、第九十六代・後醍醐天皇の大嘗祭の折の官宣旨)天皇が南北に分かれて対立する時代であれば尚更、正統を示す意味でも阿波からの麁服が重い意味を持つのである。

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第九十五代・花園天皇も同様に官宣旨を阿波国国主に向けて出している。これを写して三木家に督促するのが習わしである。延慶二年(1309)の秋、次官(すけ)であった、中納言藤原朝臣兼季(かねすえ)が天皇から賜ったお言葉として書かれている。もうこの時代にもなれば、全てが本来の意味を失い先例にならっての儀式に到達、粛々と実行しているに過ぎなくなっていたことだろう。それでも、意味も解らず延々と今日までやっているというのは、なんとも凄いことだ。

話はまたも、相前後する。古事記に照らせば、まつろわぬ神々との和平交渉に勝利した武御雷、大国主は大宮殿を建てる許可と交換に(つまるところ、軍事・経済の権力はそのまま大国主が保持)、日本の国のシラス権能(権威)を天津神に譲る。そして、具体的に降臨する人選ならぬ神選の時、邇邇芸命が誕生する。日本の神々における霊力の強さは若いほど良いとされることから、当然にも生まれたばかりの男系男子がその任につく。五伴緒神(いつとものおのかみ)が補佐をする。五伴緒神とは、こやね・ふとだま・うずめ・いしこりどめ・たまのおや)だ。では、その親神である、天忍穂耳命はその後どうなったのか・・・・古事記に記述されていない。確かに、高天原に残って、邇邇芸命を見送ったのは間違いない。

そうなのだ、本家は高天原に残っているのだが、記紀にはそれが書かれていないだけなのだ。権威者が豊葦原瑞穂の国へ移り、倭から大倭(おおやまと)へ遷都し、平城、平安、東京へと至る。しかし、故郷に残る神々は、新たな天皇が生まれるたびに、麻を栽培し、糸にし、布にし、御霊を宿し、大嘗宮へと運ぶ。

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実働部隊は、神産巣日神七世孫の天日鷲、つまり、国津神の阿波忌部がこれら一連の作業を担当する。忌部がこの作業を担当しなければならない事は、十世紀に書かれた憲法細則である延喜式に明記されている。(上の写真、後から二行目)

践祚大嘗祭がいつ頃から行われているのか、不明ながら、大体今の形態に落ち着いたのは、天武天皇あたりからとも云われる。が、践祚なる式典はおそらく太古から行われていたであろうし、麁服調進もずっと昔よりあったのだろう。権威付けの為に、律令の世となった頃、式典も形式化し拍を付けたのだと推測する。生々しさが抜け、形式化・形骸化してこそ、権威なのだ。

今回は、阿波からの麁服が式典に用意できなければ、天皇は半人前の扱いを受けるという歴史的事実を書いてみた。

要望や反応があれば、また次を書いてみよう。



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