見出し画像

番外、カタカナ表記


日本人の識字率の高さは、浦賀に来て恫喝外交をしようとしたマシュー・ペリーも驚いたということです。福沢諭吉は西洋の言葉を漢語風に落とし、日本人が即座にわかるよう新しく単語を作りました。これによって、日本人は指導者なしでも、手引書を片手に、物作りあるいは操作ができるようになっています。

今回は、番外で、このままカタカナ外国語の氾濫を容認しても大丈夫かなという杞憂な話。一言でいえば、塵です。

日本の工業製品には、必ず分厚い手引書が付いています。昨今では、経費節減の為でしょうか、電子媒体の場合もあります。が、活字には違いありません。だんだんと日本人の能力も低下してきたのでしょうか、手引き関連も動画になってきました。より分かりやすいとか、流行で片づけられています。討論に弱い私は、確かにそうかもしれないと、妙に納得させられています。

と、ここまで、ほぼ輸入カタカナ語を使わず書いてきました。(^^ゞ

かつて、IT関連の単語を見た時、これはまずいと思ったことがあります。
歴史的にはしょうが無い側面もありますが、
かつて、コンピュータを”電子計算機”と訳しておりました。
ずっと後になって、中国人が”電脳”と書いていたのを見た時です。


PCが4ビット時代は仕方ないにしても、16ビットになった頃には”電子計算機”を改めるべきだったと思います。

国際的になったのは良い事だと言わんばかりに、単語を見るとカタカナ外国語の氾濫です。かつて、会議に出た折、演者が流行り始めたばかりのカタカナ外国語を多用していたのが思い出されます。しかも、わざとにアクセント位置を変えたものが多かったように思います。
ニッチ
タッチアップ
アポ
エビデンス
アジェンダ
ローンチ
ミッション
バッファ
マージ
マージン
プロパティ
・・・
今ではすっかり市民権を得て、定着した単語も多いことは事実です。


また、政治家がカタカナ外国語・アルファベットを使用する場合は、必ず国民にとって都合の悪い事だと言えます。これはほぼ100%と言っても間違い無いような気がします。良否判断の目安になるほどです。


かつて、カテゴリという単語が日本に広がり始めたころ、「範疇」と訳されました。これを見た時、カタカナの方が分かりやすいと感じたのは私だけでは無かったと思います。福沢諭吉が今に生きていたらもっと日本人にわかる言葉を発明したかもわかりませんね。

さて、アイデンティティ(自我同一性・存在証明)って何でしょう?
日本人が日本人足りえるのは、日本に住み、日本語を喋ることに他ならないと思うのです。言語が民族を超えて互いに影響しあい、変化してゆくのは歴史的事実でしょう。しかし、征服民族が被征服民族の言語を完全抹殺できた事例を知りません。特に支那地域においては、征服王朝も、言語は言うに及ばず文化までも逆に染められた経緯があります。


支那地域同様に日本も、そこそこ頑丈だとは思いますが、
日本神道(自然)+仏教(慈悲)+武士道(惻隠)の混成部隊である文化が、これらの多くの単語によって切り崩されているように気がしてなりません。
福沢先生の再来を渇望します。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?