手摺なき

従来の秩序感が機能しないときも、ひるまずに対峙する姿勢を「手摺なき思考」というらしい。

凡庸な悪に対する唯一の予防的対抗策とされている。


悪意がなければ何でも許される、という考えに否定的な者も、実際に自分自身が「凡庸な悪」の体現者になった場合、「悪意の有無」を拠り所にするのだろう。

音が空気を伝播する過程で減弱していくように、
悪意は、介在する人が多くなればなるほど薄まっていく。
だからといって、
どれだけ小さな音でも、
蝸牛が刺激を受けると言う事実は依然としてそこにあり、
どれだけ小さな悪意でも、
肉体的もしくは精神的な影響を受けるひとがいるという事実は変わらない。

治療は、なくてはならないものになりやすく、
予防がなくてはならないものになるのは、
ひとが実際に影響を受けたあとである。

既成事実という道なくして、
手摺なき思考は成り立たないのではないか。


可能な限りの道を築き、
可能な限り考える。
凡庸な悪に陥った場合は、謝罪し、罪を償う。

この覚悟を持ち続けることが「手摺なき思考」だと、
今は考えている。



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