縁生

わたしは、最短ルートが好きだった。
時間は有限だと思っていたし、ゴールが決まっているなら、辿り着くまでの道のりは短い方がいいに決まっている。と、信じていた。

それが、間違いだったのだ。

この世界に起きていることは、「いったい何が目的で行われている」のだろう。
これから、人々は二分化していく、細分化していく、と言われていた。
それはそうだろうと思うし、いくらでも細かく分類もできるだろうと思う。

わたしはこれを、「自分が何者であるかを思い出す」作業であり、「自分を導く存在に気づく」作業であると考えるに至った。
存在に気づくだけでは不足で、その存在が何のためにわたし達を地球に住まわせているかを、本当の意味で理解しないといけないんだろうな。
いかに傲慢に生きてきたかを、振り返らないといけないんだろう。

神さま、という言葉を使うのは、少し前までは抵抗があった。
今はもう無い。
もう、そういう存在がいないと起き得ないことが、起きすぎている。

これから二分化されていくのは、間違いないと思う。
神さまに、引っ張られる人と、引っ張られない人に、分かれていく。

正直、人に構っている場合ではない。
ただ、人に構わないということと、世のため人のために動くとことは、両立可能だよね。

神さまへの純粋な思いを忘れて知識に走っても、それは袋小路に入るのと同じ。
完璧な知識や完璧な対処では、近づくことさえできない。
例え、脳や身体の使い方が完璧でも、そんなものは所詮、物質だから。
わたし達の本質である部分と関係ないところで頑張ってどうする。
こころでさえ、物質なのに。
神さまがふさわしくないと見れば一瞬で消え去るモノにしがみついて、一体どんな意味があるというのだろう。
それとも、自分の力で制御した「つもり」にでもなっているのだろうか。
なんて、罪深い。
そんな心構えでいるからココに生まれてくるのだろうに。

未知のもの、派手なものに、目を奪われない。
知識を先に詰め込まない。
自分はこれだけ頑張ったのに、という思いに捕らわれない。
良い時も悪い時も、最善のルートに導かれていると信じる。

でも、これって、相当「神さまが居る」と認識出来てないと、到底出来っこない。という気持ちになるのも分かる。

だからこそ、この騒動なんだろうね。
少なくともわたしは、神さまの存在を感じられる機会が、何度も何度もあった。
だから、もう、迷わない。

この分かりやすい時期に神さまの存在を感じられなかった人は、たぶんまだ本当の意味で、「動いてない」んじゃないかな。
動かないと、見えてこない。これはもう、絶対。

わたしは、いわゆる「視え」はしないけれど、十分すぎるほどに感じる機会に恵まれた。
おそらく、わたしは、このルートを何回かやり直ししてると思う。
要所要所で、こころがざわつくから。
だから、どんな結果になっても、もう、執着しない。
真っ直ぐに、神さまを信じぬくことに決めた。

そして、今のルートは初めて通ってると思う。

わたしのために設定された世界。
誠実に、頑張ろう。


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