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わたしは世界に向けたドア

消えた。確かにここに置いたのに。緞帳の裏に置いたはずのカセットデッキがなかった。兄に内緒で持ちだしたものだった。文化祭が終わった埃っぽい講堂を探して歩いた。どこにもなかった。置き忘れたとは思えない。忽然と消えた。先生に相談した。美術部の顧問の山下先生は「ちゃんと探したか?」と言っただけ。関わりたくないみたいだった。

ちゃんと探したさ。兄になんて言おう。当時としては高価な機械だった。ちょっとだけ、起きっぱなしにしてその場を離れた。戻ったら、もうなかった。みんな知らないって言う。

家に戻っても、兄と目が合わせられない。持ち出したことに気づかれたらどうしよう……。そして、ぼんやりと、誰かが持ち去ったのかもしれないと思った。その考えはなかなか浮かんで来なかった。中学生の私はまだ人を疑う経験がなかった。だから、自分の持ち物が盗まれたかもしれないという思考に行き着くのにとても時間がかかったんだ。

顔はわからないが、誰かが私のカセットデッキを持ち去ったのだ。その情景が浮かぶ。顔がない誰かは不気味だった。

いったい誰が……?

……その時、自分の世界と同時進行で、だれかの世界も動いていることがわかった。私がどこかに行っている間に、誰かがカセットを持ち去った。それはこの空間の中で同時に起きているんだ!と。

足元が崩れるようなあの感覚を、いまだに覚えている。どうして私は世界を全部見ている気でいたんだろう。私がいない時も誰かの時間は動いている。世界中の人が私と同じ空間で、それぞれに動いて生きている。でも、それを知りようもないんだ。

布団の中で怖くなった。私は、私のことしかわからない。その事実に初めて気がついた。この世界で何が起きているのか全く知らないんだ。

中学二年の時のことだ。謎すぎて不安になった。消えたカセットデッキは出て来なかった。私は仕方なく兄に打ち明けた。起られると思ったのに、兄は少し黙ってから「しょうがないな」と言った。それだけだった。拍子抜けした。

カセットデッキがなくなったことよりも、誰が持ち去ったのかわからないという不可解さに圧倒されていた。知り得ないことがある、という理不尽。あの小さな空間で起きたことなのに……。それから、私は他人が怖くなった。みんな、私がいないところで私とは違う時間を生きている。他者が謎だということに、14歳の時にやっと気づいた。世界が崩れる体験だった。

世界は安全で安心で、私が理解できるものだったのに、突然、鉛色の壁に囲まれた気分だった。知っているはずの世界が消えて、知らない現実が現れた。新しい現実はとても孤独な世界だった。

あの頃、スマホもインターネットもなかった。友達の家にはアポなしで行った。直接に誘いに行くしかなかった。訪ねて行っても留守で、無駄足になることも多かった。そんなもんだと思っていた。

いま、SNSやスマホの機能で、さまざまに誰がどこにいて、何をしているのかが確認できるようになった。人と人はつながっているかに見える。連絡はすぐ取れるし、既読になればそこに相手がいるかのごとく錯覚できる。

ガザで、ウクライナで、空爆が起きている。その様子をテレビやネットで見る。世界で何が起きているのかがリアルタイムでわかるような時代になったのに、私はやっぱり壁に囲まれている。
私が見ている範囲のことしか、私にはわからない。この実感のほうが強い。14歳の時に感じた「知ることができない」というもどかしく、せつなく、悲しい実感のほうが強い。

知識を広げて世界を理解しようと必死になった。世界の中に入っていきたかった。私の認知の範囲を超えた世界を実感したかった。人生の半分以上を、世界を認識しようとして費やした。だけど、どんなに世界の中に入って行こうとしても、世界で起きている事象の周りをくるくる回っているだけだった。しゃぼん玉の玉虫色に光る表面に映っている景色の中に自分もいた。私は世界の中にいるけれど、投影されているだけだ。

ネットもしゃぼん玉に映っている世界だ。すぐ弾ける。

「知らない」という事に気づく前、私の世界はパーフェクトだった。「知っているかどうか」を判断する必要がなかったから、知るとか知らないという次元ではない場所にいた。
ある意味、世界は完全だった。そしていきなり分断された。

その後、私は分断された世界から、また完全な世界に戻ろうと試みる。そのために、瞑想や、禅や、幻覚植物や、いろんなものを試した。妙な人生になってしまった。それも全部、あの14歳の、体験のせいだ。

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