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神は「人間ファースト」ではない …神社に参拝する前に

2023年も残りあと僅か(早いなぁ~、年々早いなぁ~)
歳末の怒涛の日々をお過ごしの方も私だけではないはず(笑)

ところで年末年始は神社に参拝する方も多いでしょう。
巷によくある「正しい神社の参拝方法」は他の方に譲るとして、
神社参拝のもっとベーシックな部分について簡潔に書いておこうと思います。

大きな神社の役割

帰省先や旅先で有名な神社、大きな神社に参拝される方は大勢いらっしゃいますね。
「大きい神社ほど大きな願いが叶う」と勘違いされている方は、もはや私の記事をお読みの方にはおられないと思いますが、念のため。

大きな神社の役割は、ズバリ日本国の護りと言えるでしょう。
ですので「個人的な願い」はむしろ…というのが十和田の私見です。

例えるなら、風邪でノドが痛いとき、わざわざ大学病院に行って「PL顆粒を処方して下さい」と医師にお願いするようなものでしょうか。「そうしたことは町医者(氏神様)に頼んで下さい」と言われてしまいそうです。

いや、それ以前に「個人的なお願いなどできる雰囲気ではない」そんな空気感が一入ひとしおだったりする所も。

大きな神社では日頃の感謝や、参拝できたことへの感謝をお伝えするのが良さそうです。

大願成就後の「お礼参り」

それでも「是非こちらの神社にあやかりたい(願掛けをしたい)」と思われる方は沢山いるでしょう。
「こちらの神様は〇〇にたいへんご利益があります」とアピールしている神社も少なくありません。

かつては十和田も旅先で願を掛け、後に叶えられたことがあります。
それは山形県の羽黒山山頂にある出羽神社でした。

もちろん、後にお礼参りにも行かせて頂きました。

1度目の参拝はドカ雪中の雪景色でしたが、2度目に訪れたときは真夏。
同じ場所を異なる景色で2度楽しめたのはとても良い思い出です。

ご恩を頂いてもそれきりなのは、神様にはたいへん失礼にあたりますね。
最初の参拝よりもお礼参りこそが重要と考えた方が良さそうです。

人間関係もそうですが、お世話をした相手からそれっきりにされると残念に思うものです。

また、相手の方が
「ありがとうございます。また次もお願いします」という人よりも
「ありがとうございます。次はお礼をさせて下さい」と言って頂ける人との方が長くご縁を持ちたいと思うものです。

地元の神社こそ通うべき

こうした「お礼参りがしやすい」という意味でも、自宅近くの氏神様に日頃から参拝するのが良いですね。

ご挨拶だけでも、神様にこちらの顔を知って頂けたなら、いざという時の「個人的な神頼み」も成就し易いかもしれません。
ちょっと気持ちが落ち込んだときや体調が優れないときには、パワーを授かれるという話も良く聞きます。

氏神様こそ最もご懇意にさせて頂きたい神様と言えるでしょう。
(※廃神社はダメですよ)

そしてできれば神社のルーツ、氏神様のルーツを調べた上でお参りすると、お喜び頂けるかも。
自身のご先祖様に由来の神社なら、神様からの好感度はさらにUPしそうです。

お賽銭「15円」は、ないわ~

「お賽銭は気持ちで良い」とよく言われますが…
「《ご縁》がありますように、で5円」とか
「《十分ご縁》がありますように、で15円」とか
まだそんな方が令和の今でもいらっしゃるようで、ちょっと残念です。

これは十和田の私見ではありますが、
今の時代、5円や15円で、何が買えますか?

子供のお小遣いにしてもさすがにない金額です。
神様に対して5円や15円、というのは
まるで神様を埼玉県民のように扱うようなもの?

(埼玉の方、すみません)

これではせっかく参拝しても本末転倒、マイナスアピールにしかならないかもしれません。

たまたま持ち合わせの小銭がなかった、あるいはよほど生活に困窮している場合でもない限り、5円や15円のお賽銭は、大人の方なら控えましょう。
(※十和田は神社関係者ではありません)

特に願掛けをした場合、それは神様との取引き開始です。
取引きに充分な対価か?
自分は取引きに値する人間か?
取引き内容は神が許諾しうるか?
今一度よく考えてから行うのが良いでしょう。

くれぐれも「私は今、神に対峙しているのだ」と気持ちを引き締め、神様に失礼のないように行動したいものです。


参道は(混んでいなければ)真ん中を

参道は字のごとく「参拝するための道」(ルーツは「産道」という説も)。

混雑していなければ、神様との対峙を意識するためにも堂々と真ん中を通りたいものです。
神様も参拝者に対して「お前は人間だから端っこを歩け」とはおっしゃられないでしょう。

「参道の真ん中は神様が通るから空けておく」ルールが主流になりつつありますが、
これは参拝者同士での通路の譲り合い、という意味では理にかなっていそうです。

普段の道でも、あるいは車を運転する際なども、全ての人が相手に道を譲るような精神的余裕を持てば、ギスギスしない社会になって良さそうですね。

神は「人間ファースト」ではない

神社のルーツは様々です。
古くからの歴史を持つ神社のほとんどは、固有名詞が設けられた《神》が祀られています。

では神社が建てられる前、その場所には何があったでしょうか?
何もなかったでしょうか?あるいは何かあったとしたら?

墳墓が見つかる例もありますが、多くの場合、そこには「山の神」や「海の神」などという、特定の固有名詞を持たない《神》が祀られていたことでしょう。

現代の私たちが良く知る天照大御神を知らない遥か昔の人たちは、太陽や月や星をも神様として祀っていたようです。

こうした固有名詞を持たない「自然の神」は、言い換えれば「地球そのもの」「宇宙そのもの」なのかもしれません。

そんな「自然の神」が好むものが、地球や宇宙をも含めた全ての生き物たちの共栄共存だとしたら?
人間は随分と他者を顧みない乱暴な生き物です。

神の御前では猛反省しなければならない、にも関わらず
自身のエゴばかりを祈願したとしたら?

「神様、私に宝くじが当選しますように!」
「神様、ラクして出世して年収1億円稼げますように!」
「神様、私に大金持ちのイケメンの彼氏ができますように!」
そんな人間ばかりが毎年正月に大挙して押し寄せて来たら?

あなたが神様の立場だったらどう思うでしょう?
「バルス!」と言ってしまうでしょうか?


祟るから祀っている

以上、いずれも十和田の考えですが、参拝のご参考になりましたら幸いです。

いずれにせよ、神様の姿はこちらからは見えませんが、
神様からはしっかり見られていることを、
神社を訪れた際には肝に銘じておきたいものです。

それでは最後に…

神様とは?
・個性がある
・ときどき人間との取引きに応じる
・祀らないと祟る

十和田の見解

こうした神様の特徴が上手く表現された俊逸な作品が、今年読んだ本の中にありました。

ネットの怪談のヒ………、ネタバレになってしまうので書きませんが、
これぞ「令和のオカルト本」といったところでしょうか。

神様とは?私たち人間からしてみれば得体の知れない存在であり、結局私たちは神様のことなどほとんど理解できていないのです。
物欲に溺れ、拝金主義に走り、私たちが神様を祀るのを辞めたとき、初めて神様の存在に気付くのでしょうか?

八百万の神、それは自然の神、縄文時代の神、異国からもたらされた神、私たちの先祖の神、もっともっと古くからの神…
多くの神のうちの1柱には、この本に登場するような《存在》もあるのでしょう。

コワイ話、不思議な話、ご興味を持たれた方には是非おすすめします。
オカルトがまだオワコンでないことを提示するような、とてもワクワクする1冊でした。

それでは皆さま良い年越しを。
来年もよろしくお願い申し上げます(^^)/


あとがき

「コノハナサクヤヒメは四国に進軍したか?」
そんなタイトルの記事を書きたかったのですが、ド素人の私のキャパを大幅に超え収拾付くはずもなく。
(四国に数日旅行したぐらいでとても書ける内容ではない)
いつかまた挑戦したいなぁ。
と、そんな熟成中の歴史ネタがまだまだありんす。
今後の旅行の楽しみでもあります。
来年はどこに行きましょうかねー(笑)



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