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昭和男と実家じまい5

この投稿は、実際の実家じまいについて綴っています。

<以前の投稿>
昭和男と実家じまい1
昭和男と実家じまい2
昭和男と実家じまい3
昭和男と実家じまい4

◉その後のこと

母の通夜と葬儀は、私が表立って動いたが、父の時は弟が全て仕切ってくれた。
今後は弟が墓守をしていって欲しいと思ったから、全部任せた。
葬儀で私は父親の顔を見ることが叶わなかった。
叶わなかったというより、出来なかった。
遺体はグレーのシートの様な袋状のものに包まれていた。
長い間、シャワーのお湯に当り続けていた父の体は、目にすることが憚れるぐらいに痛んでおり、シートに覆われることとなった。
弟からの「姉さんの意思に任せるけど、父さんの顔を見るのはあまりお勧めせん」との言葉に、私は父の顔を見ることが出来なかった。
変わり果てた父を見るのが、怖くて、辛くて、先々私の神経が持たないような気がして、どうしても顔を見ることが出来なかった。
お父さん、顔を見て見送ることが出来ずにごめんなさい。
そう、心で詫びるしかなかった。
せめてお父さんの為に何かをと思い、そのシートの上に、葬儀の朝、父の為に書いた般若心教の写経をのせた。
そして、息子がおじいちゃん宛に書いた手紙も一緒に置く。
父の葬儀は、母の時の様にバタバタとしなかったものの、父の顔を見ずに終わってしまった為、ちゃんと送り出した気持ちがしなかった。

私は目の前の喪失感から抜け出すことが出来ないでいた。
母が亡くなり、苦しくて、悲しくて、泣き叫びたい衝動をグッと堪えて、目の前の父の生活を整えてきた。
ようやく、そう、ようやっと、これでお父さんが生活できるまできた。
そう思えた矢先の父の死だった。

どうしてこうも、親の死が突然に来るんだろう。
母の時も、父の時も、私は最後を看取ることができなかった。
母の時は、倒れて病院に搬送され、集中治療室に入り、コロナで間近で顔を見ることもかなわかった。その次の日に病院を通して弟からの携帯メッセージで、容体が悪化したこと、その後直ぐに亡くなったことを知らされた。
父は私が訪問した数日後に、倒れて亡くなった。電話に出ない父が心配で、弟に様子を見にいってもらい、その死を弟からの電話で知らされた。
全部が「知らされた」だ。
母の時も、父の時も、ありがとうも、さようならも、言えないまま別れが突然きた。
母の死も、父の死も、あまりにも突然だった。突然すぎて、やっぱり心が追いつかない。
心の準備のない別れが、こんなにも喪失感をもたらすとは想像すらしなかった。
親がそこにいるというだけで、感じる安心感は、失われた事を実感する、心の喪失感へといきなり変わった。
40代でこの喪失感であれば、子供の頃に親を亡くした人はいかばかりだろうと、こんな状況になって理解するなんて、滑稽だと思った。

父と会った最後の日、言っていた言葉が思い出される。
「カレーが食べたいなぁ」
冷凍庫のドアを開けると、そこには父に持っていくために作ったカレーが鎮座していた。
父が沢山食べられる様にと、いくつもカレーを小分けにして、冷凍していた。
あの日が最後だったのなら、無理してでもカレーを作れば良かった。
自分の作ったカレーを目の前に、後悔がこみ上げてくる。
そのカレーを食べることも、捨てることも出来ないままでいた。

その後、私は謎の抜け毛に悩まされた。
父が亡くなってから2、3週間程経った頃だっただろうか、お風呂で髪を洗っていると、大量の髪の毛が流れているのが目に入った。
あれ?随分、髪の毛が抜けるなぁ……
最初はそれぐらいにしか思っていなかった。
もともと髪をヘアードーネーションしようと伸ばしていたので、抜けても「髪が長いから多く抜けている様に見える」のだと楽観的にとらえていた。
しかし、日に日に、髪の毛が抜ける量が増えていった。髪をといても、大量の髪が櫛に絡みつく。
お風呂の排水溝に溜まった自分の髪を集めて捨てたその量は、蹴鞠ぐらいの大きさにまで抜けるようになっていた。
「あれ、お母さん、すごい髪の量抜けてない?」
心配した息子は、毎日の様に、抜けた髪を捨てているゴミ箱を確かめる様になった。
美容院に行って髪を洗ってもらっている際にも、「どこか調子が悪いのですか?」と抜ける髪の量を見て、美容師さんも心配そうに声をかけてくるほどになっていた。
大量に抜ける髪。
私はだんだん髪を洗うのが怖くなっていった。
冬の季節なので3日に1回、髪を洗うことにした。それぐらい、髪を洗って、大量に抜ける髪を見るのが怖かった。
髪が抜けるにつれて、頭もだいぶ寂しくなってくる。夫も随分心配していたので、思い切って婦人科の病院で検査を受けた。
しかし、血液検査の結果は正常で、問題ないと言われる。
何が原因か分からず、困り果てた。
夫は私の心を落ち着かせようと色んな提案をしてくれる。
「今は、カツラも随分とよくなってきている。いざとなればそれをつけるのもいい」
カツラか……
私は、鏡に映る自分を見て、苦笑いをする。
カツラより、まずは帽子を買いに行こうか。そんな事を真剣に考える様になった。

◉実家じまい、はじめました

母が亡くなり、駆け抜ける様に父の生活を整えるも、一年も経たない間に父が亡くなり、そして、父の死から約3ヶ月後に、自分の家の引越が控えていた。
毎日が、仕事、家事、育児、引越しの準備、そして髪が抜ける症状、の5セットだった。
慌ただしく駆け抜ける様な日々だったと、今思い返しても驚いてしまう。
引越しは前から決まっていたことなので、粛々と準備をした。
日々、両親が亡くなった喪失感と、髪の毛が抜ける恐怖が押し寄せていたため、この忙しい引越しがなければ、私は耐えられなかったかもしれない。
何かに忙しくし、没頭することで母の死も父の死も、抜ける髪の毛も、考えない瞬間を作れた。
でも、ふとした時に思い出し、気がついたら泣いていた……そんな事を繰り返していた。
憎しみや苦しみの感情はなるべく早くに手放してしまった方が、心身共にいい。だから、感情を手放して、次に進むことがより健全だ。
だけど、悲しみの感情は手放そうにも、なかなか手放せない。
手放せないというより、そこに居座り続けている感じがする。

来る日も来る日も、私は引越しの準備をする。
要らない物と要る物、それらの選別を繰り返し、段ボールにつめる。
要らない物はメルカリで売ったり、買取業者に買い取ってもらったり、廃棄したりと、少しずつ物を手放す。
悲しみの感情は中々手放せないが、物を手放す事で、心を何とか落ち着かせようとしていた。
そして引越しの準備をしていたら、いつの間にか、髪の抜ける量が減ってきていた。
「お母さん、髪抜けるの、ピンポン玉ぐらいになってきたね」
息子がゴミ箱の中の髪を確かめて、安心したように言ってくれた。

引越しは、2023年1月に終えた。
引越しの荷物を紐解き、片付けをしながらも、私にはしなければならない事が残されていた。
今度は、亡くなった父の手続き、そして実家じまい、いわゆる家の処分も視野に入れた片付けだ。
ある意味、母が亡くなった時点で、実家じまいは始まっていた様に思う。
弟は仕事が忙しくて、それらに手をつけることは出来ないという。
それに遺産相続に関して、全ての財産がどのぐらいあるのかも分からない状況だった。
相続税が発生するかすら分からない。
タイムリミットは、調べると父の死後から10ヶ月と分かった。
死亡届や厚生年金、健康保険関連の役所の手続きは、弟に分担してもらい、全てのカードや保険、水道・電気・ガスなどのライフライン、そして銀行など、諸々の状況を調べて解約する手続きは私たち夫婦がすることにした。
もちろん、財産状況も調べて、税理士さんに相談することもだ。
そして、最大の難関、実家じまいをすることも、私達が担当する。
残された実家を弟は引き継がないか聞いたが、自分の家もあるし、いらないと返事が返ってきた。
誰かが相続しなければならず、私が相続することにした。
家を残すのか、それとも貸すのか、売るのか、それを決めなければならず、私は実家を売る事を前提に動くことにした。
両親を失った喪失感はまだ癒えていないのに、自分が小学校2年生から住んでいた実家を片付けることは、私にとって辛い作業であることは間違いなかった。
この家で同居していた祖父母を見送り、両親を見送り、今は誰もいない静まりかえった実家。
その実家じまいに、夫は何も言わずに一緒に歩んでくれる。
こんないい旦那様、他にいない。改めて、旦那様に感謝した。

私と夫は、一つずつ両親にまつわる物を解約をしていく。
父に関連したもの以外にも、母のものも手続きが残っていた。ポツポツ郵便物が届き、まだ解約してなかったかと気付くものも多々ある。
契約も、加入していた物も、お世話になっていたものも、全てを解約していくと、一歩一歩と両親の痕跡が消されて、この世からいなくなってしまうような感覚になる。

実家の財産をまとめるとなると、当然、銀行も手をつける必要がある。
父がどの銀行に預金をしているのか、それを調べ、一ずつ解約しなければならない。
母が亡くなった時に、通帳やカード、銀行印は探し出し、その時は、通帳の中を確認せぬまま、それらを父に手渡した。
中は見られたくないだろうという、配慮もあった。
なので、地元の地銀以外、他の預け先の銀行名なども覚えていなかった。
だから、どの位の預金額があるかも把握していない。
先ずは父に手渡していた銀行通帳とカードを指定の場所から取り出そうとした。
引き出しを開けると、中にはあるはずのものが無かった。
決めていた場所から、父はいつの間にか移動させていた。
え?? 今は、どこにしまっているの?
「お父さん、どこにしまった?」と銀行通帳の場所を聞いてしまいそうになるが、父はもういない。
ふと、父と最後に会話した時の事を思い出す。
そう言えば、父はあの時、手帳かメモの様な物を取り出して、どこの銀行にいくら預金しているか、私に伝えようとしていた。
あの手帳さえあれば、銀行が特定できる。
そう考えて父の書斎を探したが、どこにも見つからなかった。
私たちは、またもや、家探しから始めなければならなかった。

つづき> 昭和男と実家じまい6

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