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サッカー放浪記


#スポーツがくれたもの

第1幕


ブラジル放浪編

南米との出会い
 話は、約25年前にさかのぼる。平凡な生活がとても退屈だったのと、昔から憧れていた海外生活、1人の力で何ができて、どこまでできるのかをすごく試したかった自分がいた。
 当時、仕事をしていても達成感がなく、やりがいも感じず、何がしたいのかも分からない。ただ、漠然とここは、嫌だ!って思っていた頃だったので、兎に角、一度退屈な枠を取っ払いたかった。その時に、ふと、思いついたのが、サッカーでの独り海外遠征。小学校から高校生まで、サッカー一筋で青春時代を過ごしてきた。
 きっかけは、当時、通っていたスポーツジムのインストラクターさんの一言だった。「こういうのがあるけど話だけでも聞いてみたら。」と言うことで地元新聞を見せられたことを覚えている。
そして、その話を聞きに行った時には、既に決めていた。いや、インストラクターさんから聞いたときにはもう決めていたに違いない。ここで、初めて海外に行くチャンスをもぎ取った。
 今思えば、サッカーでなくてもおそらく、海外に行くチャンスを私は探していたのだと思う。その1つのきっかけがサッカーだっただけで、特にこれといった理由は無いが、これが私にとって、サッカーが人生を変えるスポーツになった瞬間だったと今となってつくづく思う。

ブラジルの風が吹いた。


葛藤の2年間
 しかし、事は、そんなに上手く進まない。職場をすぐに退職することができず、足掛け2年をかけてやっと退職が叶った。その間は、自分を切り替えこれも2年与えられ準備ができると自分に言い聞かせこの期間を乗り切った。時々、嫌になったがここでめげてもしょうがない。プラスにはならない。気持ちを前に前に持っていくように努めた。
    この時に、前向きになれたのは、様々な練習方法を試し自分なりの形(理論)を見つけることができたからだと思う。早くこの、成果を実践で試したかった。これがどこまで通用するのか興味が湧き上り不安を上まわった。こんなことをしながら、モチベーションを上げて2年間を乗り切った。
 この2年間は自分を見つめ直すしまた、サッカーを見つめ直す良い時期だったこと。練習方法と体の対応力など様々な視点から練習とそれがもたらす影響、効果をしっかりと自分の中に落とし込めた時期だった。そういう意味で、自分の中で新たな発見がこの2年間の間にたくさん見れた。これは、正直思いもよらない成果だった。その後、半年かけて出発の準備を整え、日本を後にすることになる。

まさしく、ここでもブラジルの風が吹いた。

憧れの海外(ブラジル)
 サンパウロ空港を降ると南米特有の乾いた空気が体を包んだ。日差しは強く、暑いがカラッとしていて長袖を着ていてもとても気持ち良い感覚がたまらない。そこから、南米特有の赤土の大地と羊雲が遠くに広がって見えている。
    ふと我に戻り歩き始めると、また乾いた空気が、歩く私の体を通り過ぎていく。

とても良い晴れた日だった。


 しかし、空港を出たら、そんな気分から一瞬で現実に引き戻される。そこで、目の当たりにしたのは、柵に群がる子供や大人たちだった。こういう光景は、日本では到底見られない。ブラジルにいるとこういうところも見せてもらえる。文化の違い、人種や言語、政治様々なものが全く違う世界に入る。そこで生活している現地の人の姿を見る。今までずっと、幾つものフィルターのかかった都合の良い形を見せられ、また、自分も知らずに作り上げていたのかと自分の想像力の陳腐さを思い知らされた。
 ブラジルではサッカーはもちろん、そういったことについてとても考えさせられる国でもあった。
 サンパウロ空港からバスで6時間かけて移動。
    無事に目的地にたどり着いたのだがもうすっかり夜だった。遅かったが、優しくもてなしていただき無事だった事をとても喜んでくれた。
 ここで新しい生活が始まるんだと、心の中では、飛び回って喜んでいた。

ブラジルサッカーの風
 ブラジルには、とても多くの才能溢れるサッカー選手がたくさんいる。足の速い選手やテクニカルな選手など様々だ。しかし、才能だけでは、のし上がっていけない現実。どんなに上手くても環境に左右されプロの道を諦めざるおえない選手がたくさんいる。理由は簡単。練習する時間があれば働かないといけないのだ。しかし、ここは国民性だろうかドロップアウトしても、彼らはあっけらかんとしており、サッカーを心底、楽しんでいる。町の試合でも生き生きしてプレイしている。
 とにかく彼らは明るい。プレイも垢抜けている。到底同年代の選手から与えられる感覚ではなかった。まったく、はじめての感覚に近かった。これは何を意味するのか、根本的な事が全く違うことを意味している。僕らと今まで食べてきたものが違うように、見てきたものが違う。例えるなら、全く別のスポーツをしているかのうようだった。
 練習はとても厳しかったが、毎日練習ができる幸せを噛み締めていた。1日、1日の練習内容をノートに書きまとめ、日本に帰ったときこれをもとに子供たちに教えてあげたいと願い毎日を楽しく過ごしていた。
 私は、とても良い監督、コーチに恵まれ、チームにとても感謝している。
 この時代は、日本人がサッカー留学をしてもまともに練習もできずそのままギャング化し警察沙汰になる留学生も沢山いたと聞いていた。なので、日本人サッカー留学生を良く思っていない人も多くいた。
また、日本人留学生がそういう目で見られるのも経験している。そんな中、きちんとしたチームに所属でき練習もでき試合にも参加させてもらえるとても良い環境を作ってもらっていた我々は、とても幸せだった。こうやって、文を気持ちよくかけるのもこのおかげである。
 私は、最後に日本に帰国した1年後、お礼を言えず帰ってきたことに後悔し、再度ブラジルにそのためだけに行ったのを覚えている。いや、行きたいだけだったのかもしれない。
 それだけ、私にとって、とても魅力のある国であった。

日本とブラジルの風の色
 いろんなことを肌に感じながらブラジルでの生活が1日1日本当に有意義な日々となっていった。それに加えて、ブラジルのサッカーに触れることで、自分のマインドが何度も崩れては構築されていくことが感じられた。
 ブラジルでは、試合にもなると近くても平均で5時間、遠くだと12時間もバスで移動することもあった。
 当然移動の間は、スムーズに事が進まない、期待通りにバスがエンジントラブルで立ち往生。しばらく動かない事など日常茶飯事だ。
    敵チームで1泊するその部屋でさえも雑魚寝を強いられ、休むと言うものには程遠い、などなど挙げるとキリがない。
 試合だけに集中できる事の大切さが、ブラジルに居ると痛烈に感じる。逆に言うと、そういう中でも集中力やモチベーション、体力を維持しながら試合に臨まなければならない。
 何一つ思い通りになる事は無い。


サンパウロで見た2つの色
 こんな話をしているうちに帰国をすることになってしまった。
 ここでまた私に衝撃を与える出来事が起こるのだ。滞在中もびっくりする事は多々起こるのだが、エピソードとしてこれを紹介しよう。
 ある日(帰国直前)、サンパウロの友人宅に遊びに行った時だった。お互い会えないかもしれないということで、家に招待してくれたのだった。
 サンパウロの近代的な街並みは、日本の街に匹敵するかそれ以上に感じる。しかし、その道中たまたま道を間違えてビルとビルの間に入ってしまった。そこにはなんとビルで覆い隠された赤土の敷地が広がっており、マッチ箱ような家が山に向かって連なっている。その時の衝撃は今でも忘れられない。何かブラジルの表と裏を見たような気がした。
 その友人の家に入って、更にびっくりすることになる。
 それは、先程のビルの裏にあったマッチ箱のような家が丸見えだった。その家で生活している人の動きが覗けてしまう。そう、あるはずの屋根が見えない。たまたまそこだけだったのか今では、はっきり思い出すことができない。
 ここでは、サッカーだけではなく、日本とブラジルの文化の違いや生活様式の違いなどなど様々な体験をもとに、肌で感じることができた。とても貴重な体験だった。
 この後、帰国するのだが日本の子供たちとブラジルの子供たちの目の輝きが違うのを感じた。

これは、とても大切なことだと私は感じた。



第2幕


アメリカ放浪編

アメリカワールドカップ
 今度は、北アメリカ行くことを考え始めた。 
 ほかの仲間達は再度ブラジルへ行き再挑戦をする人も多かったが、私は年齢的なものなどを考え、行き先を北米と変えた。
 その一つの理由は、アメリカでワールドカップが開かれた年だったと思うが、その翌年ぐらいにアメリカは2度目のプロ化を目指すことを宣言していた。今のメジャーリーグサッカーである。
 ブラジルから帰国後、1年間は、練習とバイトに明け暮れた。深夜のコンビニの配送業務や警備の仕事いろいろやった。練習時間の確保と資金調達の両立はとても厳しかった。
 反面、気分的には少し、落ち着いてきた。
 そんな中、練習の一環として、参加した試合中の出来事だった。そこで私は、右足十字靭帯損傷と言う大きな怪我に見舞われる。私の不注意で怪我をしてしまった。
 やってしまった。終ったと思った。
 ここで、断念しようかと思ったが、悔いが残るのも嫌だと思い前向きに捉えチャレンジすることを決めた。この怪我があったおかげで、挑戦するしかないと逆に燃えていたと思う。
 とにかくアメリカへ行くことがまず1番の目標になった。
 行けば何とかなるこんな感じだった。

アメリカのサッカー事情
 アメリカは以前、今と同じようにプロ化をしサッカーを普及させようと試みた時代があった。当時はペレなど超有名選手を招きプロ化を果したが、国民性なのか根付く事はなかった。しかし、アメリカは2度目のプロ化を目指していた。前回の経験を踏まえ、アメリカは地元の選手やその地域に合ったチームづくりを考え、地域に根付いたものを創ろうと考えたのではないだろうか。
 アメリカはとても広大な土地を持っている。その中で、東海岸では、ヨーロッパ的なチーム作りを目指し、西海岸では南米的な地域の特徴をとらえたチーム作りをしていたのではないかと思う。それは、私がLAで当時所属していたチームのほとんどがメキシコ人だったことからもうかがえる。
 アメリカでは、地域に根付くようその地域のコミュニティーに合った選手の割り当てを考えていた事になる。それは、とてもよく考えられていた。
 こういう風に、アメリカは25年近く昔から、地域を考えたプロ化を目指していた事が理解できる。なので、トライアウトについても、各チームに問い合わせてもわからないと言う返事を当時よく聞いた。
 なので私は、自分のプロフィールなどを用意し、友人らと5人でアメリカのサンディエゴからルイジアナ州にあるニューオーリンズまで車でプロフィールを出しに行ったこと。記憶が正しければ、1週間くらいかけて往復したと思う。
 結局、何の返事もなく、旅の成果はなかったが、アメリカのサッカー事情を知ることができ、日本とは全く違う組織であることも勉強になった。アメリカでサッカーをする上で組織を知るという事は大事で今後の作戦を立てるのに良い経験ができた。

密かな作戦
 何の成果もなく戻ってきて、次にどう進めていくのかを自分なりにシミュレーションし考えた。
 私は、サッカーチームの情報を見つければ出向き、チームに入れてもらえるよう話したり、無理やり練習に入り追い出されたことも何度あったか。
とにかく、どこかのチームに所属し練習をする時間を確保したかった。手詰まり感を持ちながら色々と模索をしていた。
 地域の新聞やアメリカ全土での新聞などを読み漁りサッカー関係の記事を徹底的に読みまくった。たまに選手募集だったり、チーム紹介など載っていることがある。それを見つけるたびに時間をつくり、電話をかけ、出向いていた。そんな中、あるチームに目がいった。
それは、ロサンゼルスにある当時おそらく2部リーグだったと思うが1部リーグを目指し、プロ化する内容が書かれていた。私は、ここだと思い居ても立っても居られず、すぐに連絡を取りトライアウトを確認。参加の意思を伝え日程を調整した。
 当日になり、トライアウトへ向かう。そして、練習に参加しメニューを淡々とこなしていく。しかし、終わった後も何も言われず、次の練習にも参加。また次へとそんなことが繰り返された。不思議だったので、こちらから訪ねてみたが結局、はっきりした答えはもらえない。しかし、試合には呼ばれる。
 こんな所ではあるが、とにかく練習と試合をする環境は確保できた。
 私にとって大きなことだった。これで、サッカーに集中できる環境ができたことも心の安定につながった。
 これは、これで作戦大成功ということにしておこう。

サッカー以外の事
 ここで、もう一つアメリカで学んだことがある。これは、夢を叶えるための下積みの大変さだ。
 練習や生活をしていく上でお金が必要になる。この当時は、練習と仕事の両立がとても難しく、なおかつチームとの交渉やトライアウトなどの情報収集を全て1人でやらないといけない。
これが、1番苦労したことだ。
 しかし、合間を見つけながら、練習し情報を集めトライアウトを探し1部リーグ、2部、3部リーグとにかくトライアウトがあるところを探し続けなければならない。
練習、トレーニング、仕事探しなど、条件を挙げればキリがないがどれも大事な要素だ。
 止まるわけにはいかない。

新しい仲間との出会い
 こんな生活を、しばらく続けていた時、急に今のチームのオーナーが変わると言う情報が入った。私は、この後どうなるのだろうと心配になったが、余計な詮索はせず、サッカーに集中することにした。暫くして、チームから話しがあった。
 それは、練習場所と時間が変わったという事の連絡だった。次に言われた通り行ってみると全てが変わっていた。選手もコーチも監督も全部だ。残った人は誰一人いなかった。これで、この後のトーナメントが戦えるのかと正直落胆してしまった。この時からである私は、新たに別のチームを探すためにまた、情報収集に明け暮れた。とにかく、試合に出ること、少しでも早くデビジョンを上げることが目標だった。
 そんな時、不思議に同じ目標を持った日本人に出会う。たまたま、試合で出会ったことがきっかけで連絡をとるようになっていた。
 お互い励まし合いながらサッカーを続け、夢を叶える事を誓い、いつか何処かで、また会える日を楽しみにしていると盛り上がった。
 また、自分のチームにも新しい選手が入れ替わりで入ってくる。この時入ってきたのが、フランスの2部リーグを経験した選手だった。背の高い黒人の選手で性格は温厚で紳士的だった。
 この出会いが、後の渡仏のきっかけになる。
 こうして、サッカーを通じての友人や仲間ができた事は、私の財産である。
しかし、サッカーに明け暮れる日々を続けていく事の難しさを目の当たりにさせられることになる。まだこの時は、気にも留めなかったが。 

 情報を集めていくことで、わかってくることがある。
 それは、当時のアメリカのサッカーを取り巻く環境は、まだ発展途上だということ。始まったばかりなのだ。
 この事を考えさせられる時期であり、今後のことを決める重要な判断材料となった。

帰国に向け
 総合的に考えて夢を断念する事を決めた。
 アメリカに残って夢を追うか、それとも新しいことにチャレンジするのか。アメリカから逃げるのか。新しいことも成功するとは限らない。時間をかけ考えた末の判断だった。
 自分にとって、悔いは無かった。
 それは、フランスリーグへのチャレンジを考え始めたことと。
    さらにもう一つ。この当時、アメリカは子供たちの成長に、サッカーが重要な役割を担うということ。それは、小学生や中高生等が成長する過程において、サッカーを経験することで、チームワークを培うことができるという認識から今後、サッカーを教育プログラムに組み込むという話しを聞いた。更に広げ、障害のある人にも、社会参加、また生きがいを作る上でとても良いツールであり、これからアメリカでは力を入れていくことを、当時のカリフォルニア(確か、サンフランシスコ)にあるサッカー関係者から話を聞いていた。この2つを日本に持ち帰り日本でも同じ取り組みができないか。どうこれらに取り組んでいくかを考えたこともきっかけとなった。
 ただでは帰らない。何か必ず収穫を持って帰る。そして次につなげる。この事で、私は前を向いて歩くことができた。
 ここで、新しい目標ができた。
 私は、これまでのブラジルとアメリカでの経験を生かし、これを、今後どう活かしていくかは、私の大きな課題になった。
 幸い、ブラジルのチームにいた時、選手はもちろん、コーチとしても勉強していた。こういった経験が、そう思わせる要因でもあった。
しかし、これは、私にとって最後のチャンスでもあり今後を占うものになるだろうと感じていた。

新しい幕開け
  さて、日本に帰ってきてまずした事は、フランスリーグにあるチーム1部、2部問わずに自分のプロフィールを書いた手紙を送りつけ返事を待つ。その間、日本でアルバイトしながら練習をしていた。最低限の練習環境は揃っていた。しかし、すべて1人でやらないといけない状況は、日本でも変わりはない。ただ、逆に何もしなくても、生活できてしまう状況の中モチベーションの維持はとても重要だった。周りに流される要素もたくさんあるということだ。
 ある日、フランスから続々と手紙の返事が帰ってくる。どれも、返事はNO。諦めかけた時、1通の手紙が届いた。内容は、「あなたをいちど見てみたい、是非一度来てみないか」というものだった。悔いを残したくない気持ちからフランス行きを決めた。直ぐに準備し南部にある小さな港町のチームへ飛ぶ。予定は、1週間だ。これで、全てが決まる!
 アメリカで出会った彼の情報がフランスへの道をつけてくれたのだ。
    しかし、これが呆気なく終了してしまう。手紙をくれた人物と会うことが出来なかったのだ。調整した筈なのに。
 悔しくて再度、挑戦しようと考えたが、時間の無い私にある意味、別の道へ行け!と引導を渡してくれたように思えた。キッパリと切り替えることにした。

新しいステージへ
 フランスから帰国後、気持ちを切り替えることができた中、今後のことを考えた。
 それがアメリカで教えてもらった、子供や障害のある方々へサッカーを伝えていくという目標だった。これについては、今の職業に大きく関わっている。
 日本で取り組んでいこうと決めた時、仕事をしないといけないと思い飛び込んだのが、その関係の仕事だった。これは、入社して初めて気付いたことだった。正に、導かれていた。
 入社当時より、障害のある方々の余暇活動に対し疑問に感じておりそれと同時に、その地域に少年サッカーチームが無かった為そこで、楽しく一緒にできないかと保護者や関係者へ提案。快く受け入れてもらえた。
 みんなの体力、移動手段の確保などを考え、週一回のペースで練習をしていくことになり、基本的に「とにかく楽しく」をモットーに練習をしていた。彼らは、覚えるのも時間がかかり、さらに練習場への移動手段がなく来れない人もいた。スポーツを楽しむ以前に課題がのしかかってきた。皆と協力し取り組むことで乗り越えることができた。
 今思えば、私が1番楽しんでいたのかもしれない。
 更に、県内に目を移すと、全く同じ状況があることを知り、同業の人達と一緒に話し合い県中央にチームを立ち上げた。14~15年前の当時は、誰でも練習を認めていた事もあり、練習中に居なくなったり、全く動かなくなったり、喧嘩が始まったりともうサッカーどころではない。しかし、これが実に楽しかったし苦にならなかった。
 こんなきっかけから生まれたこのチームも、今では、全日本代表選手を数人輩出するまでになっている。これは、県内の沢山の支援者の協力によって、輪が広がり選手が少しずつ集まり、そして育っていった。監督、コーチやそれを支えるスタッフが本当に一生懸命選手の為やって来た結果ここに至ったのだと私は思っており、とても感謝している。
 現在もそのチームは、2年連続で全国大会出場を果たしていたが、昨年はコロナウィルスの関係で国体が延期になり、涙を飲んだ。
 これは、障害者だけではない。スポーツを愛する人皆だ。
 我々は、コロナという新しい課題に直面しているが、諦めずに前を向き必ず乗り越え、大きな舞台へ我々を連れて行ってくれるに違いないと信じている。

私はこれまで、サッカーからたくさんのものをもらった。
 ありきたりだが、「諦めない力」そこには、現状にもがく美しさがあると思う。
 常に私を導き、必ず答えてくれた。

 最後に、サッカーからもらったものを今度は、次世代の人達に残し伝えていくこと。それが、スポーツがくれたモノ。


そう、伝えるという役割をもらったことなのかもしれない。

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