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『人間主義的経営』 ブルネロ・クチネリ 訳・岩崎春夫 クロスメディア・パブリッシング

ブルネロ・クチネリとは

ブルネロ・クチネリ社は創業当初から「人間の尊厳を守ること」を経営の目標に掲げ、ブルーカラーとホワイトカラーの区別なく、世間水準を上回る給与を支給している。

ブルネロ・クチネリは、1953年にウンブリア州ペルージャ郊外の村、カステル・リゴーネに生まれた。

1978年にカシミヤセーターを製造する会社を立ち上げて、事業の目的を「倫理的にも経済的にも人間の尊厳を追求する」ことと定めた。

1982年、ソロメオ村に移り、そこを「人間のための資本主義」を実現する場所と定めた。3年後には廃墟となっていた古城を買取り、ブルネロ・クチネリ社の本社とした。

2012年、ブルネロ・クチネリ社はミラノ証券取引所に上場した。ソロメオ村を修復し、文化、芸術、人々の交流を促すために劇場や公園、図書館などを整備した。

人間主義的経営

「倫理的にも経済的にも人間の尊厳を追求する」という目的と「人間のための資本主義」を実現するというソロメオ村での活動を受けて、ブルネロ・クチネリ社は事業の拡大とともに、広くその取り組みに関心が寄せられるようになった。

会社は健全な利益をあげる一方で、経営は哲学を掲げていました。過剰な利益を求めず、正当な成長、正当な利益、すべてにおいて穏やかであることを目指しながら、製品の輸出先は広大で美しい南米まで拡大していきました。p.130

ブルネロ・クチネリが考える「正当さ」とは、前述した取り組みから思惟することが出来る。「正当さ」は正しい見識の持ち主に宿るものだと思う。

自社あるいは自分において何が、どのくらいで正当な成長であり正当な利益なのかと考える機会は乏しい。闇雲に、成長し続けること、利益を出し続けることが正しいこと、好ましいことだという盲目的な信仰がある。

もし求める方向性があるのなら、正当なものであるかどうか考える癖をつけていきたい。私は物事を判断するときに、すぐに白黒をつけようと思わず、健全か否かという観点で考えることがある。そう自分や他人に問いかけてみると人間の見解はおおよそ一致する。

人間のための資本主義とは

ソロメオ村の修復には、もうひとり専門家協力があった。それは庭園専門の建築家であるマッシモ・デ・ビーコファッラーニだった。

ブルネロ・クチネリは彼についてこう語っている。

彼は賢く、洗練され、啓蒙的で、夢想家で、品行方正で、礼儀正しく、親切で、風刺好きな、古代ギリシャ人のような人物で、私は彼のことを冗談めかして「私のアリストテレス」と呼んでいます。p.114

ブルネロ・クチネリとマッシモは、「人間のための資本主義」という概念について長い間議論を交わしたという。

それは人間が自然を傷つけ攻撃せずに利益を生む資本主義であり、人間の原点と歴史に根ざした資本主義。指針となった考えは常に「人間の利益」であり、すべての生産のプロセスを人間中心に組み立てるという方法だった。

二人はこの方法こそが、利益を生み、人間の尊厳を回復する経済のあり方だと考えたのだった。

私は会社で人事として働いている。とくに人事のあり方として強く共感を受けたのが、「すべての生産のプロセスを人間中心に組み立てる」という考え方だった。

だからこそ、その人を大切にしないといけない、つまりは尊厳が第一にくるのだ。人を大切にすることを最優先する社会になれば、結果として人はクリエイティブになる。それがひいては富を生む。言うまでもないが、富を生み出すためにクリエイティブであることを目指し、人を大切にするのではない。考え方の順序が逆であってはいけない 人への尊厳がクリエイティブに繋がる」 本当に“腹落ち”したクチネッリ氏の哲学 sankeibiz 安西洋之

ブルネロ・クチネリに関する安西洋之さんの記事を併せて読むと、よく理解が出来る。まず人に対する尊厳が第一であり、人を大切にすれば結果として人はクリエイティブになるということ。

尊厳が合理性のための手段になってはいないかと問うべきだ。人への尊厳は、それ自体がめざすべき目的であり、手段に降ってはならないということ。

私の拙い哲学科時代の記憶を辿れば、カントは「すべての理性的存在者は、自分や他人を手段として扱ってはならず、つねに目的それ自体として扱わねばならない」と言っていた。

ソロメオ村にも、カントの実践理性批判を締め括る言葉を記した碑とカントの像があるようだ。

わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、 ますます新たな賛嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。それはわが頭上の星辰をちりばめた天空と、わが内なる道徳法則である。−イマヌエル・カント

ブルネロ・クチネリは哲学と倫理、あるいは精神性に対して深い敬意を持ち、経営あるいは村の修復の本質になったことは間違いない。そんなブルネロ・クチネリがカントに感銘を受けるのは必然かもしれない。

美しいと思ったから

最後に、幼かったブルネロ・クチネリが得意としていたことは、牛を引いて畑に真っ直ぐに溝を作る作業だったという。ブルネロ・クチネリの父は、引いた溝の跡を注意深く確認すると褒めてくれたという。なぜ真っ直ぐなことが大切なのかと父に問うと、「その方が美しいから」という答えが返ってきたという。

私はこのブルネロ・クチネリの回想が心に残っている。すべての回答に対して、合理性や生産性、理屈を求められるなかで、ただ素朴に、そこには合理性などなく、美しいと思うからと言うことのできる心のつよさに惹かれる。

理性は情念の奴隷であり、またそれだけのものであるべきであって、理性は情念に仕え、従う以外になんらかの役目をあえて望むことはけっしてできないのである。−『人間本性論』デイヴィッド・ヒューム

とにかく理性優位、合理性優位の時代は疲れてしまう。正しく感性や主観を磨き、理性と合理性に向き合うべきだと私は感じる。感性や主観、情念の発達なしに、理性や合理性の発達もありえないと思う。後者が先んじた世界に人間の住まう場所が必要とも思えない。

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