「理由」が人を歪ませるかも。

何かの本で読んだのだけど、人間は無意識に「理由」をこじつけてしまうものらしい。例えば、通り魔事件があったとして、犯人は無差別に犯行に及んだとしても、被害者側にも狙われる理由があったのではと考えてしまうといったこと。被害者が細身だったとか女性だったとか軽装だったとか、そういった襲われるに至った理由をあったのではと思ってしまう。
なぜ理由をこじつけてしまうかというと、通り魔のような理不尽な事象の対象に自分はならないと思いたいからだった気がする。
理不尽が本当にランダムなら自分もいつかその対象になるかもしれないという不安が生まれる。理不尽の対象者にも何かしら非があるならそれを自分がしなければ自分は対象にならないと思え安心できる。そうした心理的な不安を取り除くために理由をつけるらしい。
となると、宗教もそういう不安除去効果があるのではないか。とくにキリスト教的な表現でよくある「この不幸は神があなたに与えた試練なんですよ」的なものだ。家族が亡くなったなど大きな不幸があった際にその理不尽に耐えるために「試練」という「理由」を付加することで不安除去を狙った。だから、ほんとに試練であるかどうかはどうでもよくて、その試練を超えたところで更なる幸福があるかもどうでもよくで、「理由」がついた時点で効果は発揮される。

テーマは全然違うけど最近読んだ『言語の本質』でもこの「理由づけ」に関連する記述があった。詳細はうろ覚えなんだけども、人間は「アブダクション推論」で思考するらしい。論理的には実は破綻してるけど、それっぽい論理でモノゴトを結びつけることで、思考力が高まり言語を持つことができた的な話だったとはず。さっきの宗教的な説得の仕方のように、論理的には破綻してるけどそれっぽい理由があれば人は一定の納得感を得られれることに通じる。

その流れで気になっていてまだ読めてない本。

理由づけは、自分を納得させる、不安を除去する目的があるけどそれはいいことだけでなくてある種の暗示にかかってしまう危険性がある的なことを指摘した本のはず。陰謀論者やQアノン的な思想も世の中の事象に物語=理由がつくことで過剰に納得してしまってそうとしか思なくなる事態が起こりうる。自分の今の不幸は政府の陰謀によるものだと思えた方が、どうしようも無い理不尽よりまだ何んとかなりそうだと思えたり、自分の能力やバックボーンのせいではないと済ますこともできる。

こうした物語性の怖さはドキュメンタリーでもよく感じる。やけに起承転結があったり、作品上の盛り上がりの起伏がうまい、いわゆる物語的すぎると、これをそのまま感動していいのか懐疑的になる。それはコンテンツとして消費しかねない危険性と、視聴者に与える印象に事実以上のバイアスがかかりすぎる危険性を感じるからだ。24時間テレビの感動ポルノ的な表現なんかまさにそう。

私は、映画やドラマ、漫画はむちゃくちゃ好きなので「物語」は大好物なのだが、そもそも人間が「物語=理由」を無意識で求めるかつ、その「理由」によって事実誤認も起こりうるというのが、ちょっと前から気になってるテーマ。

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