「渋谷系」とは何だったのか? 〜都市論と現代POPS史から読み解く〜 part.6

7 PARCO文化について

前章では渋谷の盛り場としての成り立ちと音楽文化について論じてきたが、この章では渋谷を大きく変貌させた1970年代におけるPARCOを中心とした西武グループの経済的・文化的な戦略について論ずる。

・PARCOの誕生と歴史

 PARCOは1953年「池袋ステーションビル」として誕生。誕生当時はステーションビルの運営であったが、翌年株式会社丸物の資本参加を受け百貨店業へと移り変わる。それ以降「東京丸物」として百貨店を開業し続けていたが、1969年に業績低迷を理由に丸物が撤退。そうした中、西武百貨店が資本参加をし、その年池袋にPARCOをオープンする。こうして西武百貨店が手がけたPARCOは規模を広げていくことになるが、PARCO会長の増田通二と公益財団法人セゾン文化財団理事長の堤清二は1973年に誕生した旗艦店となる「渋谷PARCO」の立ち上げに大きく関わった。

1973年のパルコ渋谷

 特に堤は渋谷PARCOを文化戦略と結び付け、日本の消費スタイルを大きく変えていくこととなる。前章で渋谷PARCOが街のイメージを変えていったと論じたが、渋谷PARCOだけでなく、公園通りにあった街灯や電話ボックスを欧米風に変え、近くにミニシアターや劇場を設置するなど文化的な観点から街を変えていった。

・渋谷的なるものの構築 吉見俊哉の仮説

 本章ではpart1にて参照した、吉見俊哉著書『都市のドラマトゥルギー』(1987)を参考にしていく。は1970年以降渋谷・公園通り界隈の抬頭を積極的に演出したのは西武資本系のPARCOとし、PARCOを中心とした虚構空間の誕生を言説化した。また後々近年まで語られるPARCO文化というイメージを作り上げたと考える。吉見はPARCOの空間戦略の基本的な考えについて、大きく分けて2つの考えに集約できると述べる。その第1の点は「街のセグメント化」であり、似たような価値観を持つものを集約することで街自体が感性になるとした。しかし、街がそうしたセグメント化していく上で、その内部の諸空間が「見ること」「見られること」を媒介する役割を果たさなければならず、価値観を確認させるような街である必要がある。そのため街全体を巨大な劇場と見立て「ステージ化」していった。これが第2の考えである。

 PARCOのオープニング・キャンペーンのコピーは「すれちがう人が美しい」と言ったものであり、基本戦略をはっきりと映し出しているが、展開方法は果たしてどのようなものであったものか。まず、テナントビルにおいて重層的(フロア別)に構成し、そこで商品や情報をテーマ別にセグメント化していき、階ごとに専門的に集中させる。それから界隈の道には外国風の響きを持った「スペイン通り」などの名前をつけた。さらに渋谷という街を計画都市のようにすべてのものを一度に設置するのではなく、徐々に変化させていくことにより絶えず新しい場面をそこに演出していったと論じる。こうしてPARCOの空間戦略は演出家の街として、渋谷を1960年までにはなかった新しい「渋谷」として「現代的」な風俗を上演させたと吉見は考える。

 さらにこうしたPARCOの空間戦略は、たんに渋谷という盛り場に結びついているだけでなく、現代の高度化した消費社会が都市に張り巡らしていく空間技法の一つと考え、ステージ化した渋谷という街を1970年代の消費社会の特徴として捉えている

 また吉見は「渋谷的なるもの」の主要な担い手は若者であるとし、1960年以降渋谷に来る人々の居住圏が急速に拡大した点も大きく関係していると述べる。こうした「郊外化」に加えファッション誌の流行による渋谷の街の「情報化」というものも「渋谷的なるもの」への盛り場の変化をもたらしたと論じている。

・高度消費社会の象徴として 北田暁大の仮説

 吉見が論じたようなPARCOの空間戦略は現在も数多くの知識人に同意を得ているが、その中でも北田は著書「広告都市・東京 その誕生と死」(2002)の中でPARCOを中心とした渋谷の発展について論じており、その中において渋谷・公園通りという「広告都市」が1980年代の消費社会の現象を先鋭的に表した都市としている。吉見が「都市のドラマトゥルギー」を書き上げたのは1987年であり1970年代における渋谷を描いているが、北田は1980年代からそれ以降の渋谷について大きく取り上げている。

広告都市 東京 その誕生と死

 北田は都市を「コミュニケーション・メディア」として捉え、広告=都市という視点で論じている。その中で都市というメディアを舞台とした広告の「脱文脈的=メディア寄生的」な振る舞いは1970年から80年代にかけて大幅な規制を受けたとした。また改正野外広告物法が成立した1970年代において、広告と都市の関係をめぐる言説を支配していたのが「秩序/無秩序」コードと呼ぶべきものであったとし、「体制/抵抗」という堅苦しい2項形式で存在したと論じる。そうした中で、「文化」という第3項を導入したことにより、この2項対立を克服して行ったのが、堤清二率いる西武〜セゾングループであったという。堤清二とPARCOの増田通二は、「PARCO」という広告主が書かれていないおしゃれなウォールペイントや街灯を公園通りに設置し、流れてくる音楽に至るまですべてのものがPARCOの「文化」漂う「舞台」を彩り、そこを遊歩する人々=役者の身体を取り囲んで行った。こうして周辺の真空地帯をPARCOの広告空間にし、渋谷の公園通り周辺そのものを広告として行った。

堤清二

 またこうした1970~80年代における広告=都市の方法論は、近年の「ヴィーナスフォート」や「ららぽーと」などから、みなとみらいエリアやお台場エリアなどの都市開発に大きな影響を与えたとする。そしてこのパルコ的方法論は1980年代における「東京ディズニーランド」の空間戦略的であるとした。具体的にはディズニーランドが差し出す記号システム(アトラクションや建物)が外部に触れ「自己完結性」を失うことがないようにすること、また閉鎖的な記号空間の中でゲストが「与えられた役割を演じていく」ように仕向けられていったことである。吉見は「地域が育んできた記憶の積層から街を離脱させ、閉じられた領域の内部を分割された場面の重層的シークエンスとして劇場化していく」とディズニーランドの空間戦略について述べ、パルコ的なものを純粋な形で実践した「夢空間都市」であったと述べる。

2023年に幕を閉じたヴィーナスフォート。外国風の内装が特徴。

 北田は1990年以降の渋谷についても述べているが、90年代に入るとその位置価値が低下していると述べる。こうしたPARCO界隈・文化村エリアの死と相まって、渋谷的記号イメージいわば都市のアウラを喪失しつつあるともした。1990年末ごろから登場した「プチ渋谷」の出現が象徴されるように、渋谷という都市は郊外化していったと考える。

参考文献
吉見俊哉、2008、『都市のドラマトゥルギー東京・盛り場の社会史』、河出書房新社
北田暁大、2011、『広告都市東京 その誕生と死』、ちくま学芸文庫

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