足るを知る、ということへの雑感

こんにちは。
現実社会にあてられて、ちょっと弱り気味です。

どうすれば、人類に平和が訪れるだろうか。
考えてみたことが、私にもあります。

それを真剣に追求するのなら、
現実の支配構造やその生い立ち、目指すところ。

そうしたものへ目を向けることも
必要でしょうが、一旦脇に置きましょう。

それらについては、
真実はそう簡単に分からないですし、
人の世を運営しているのは人です。
人の行く末、運命を占うのは、
ひとえに人のありようです。

だからシンプルに考えます。
誰もが争いを止められる、その条件を。

争いの本質は多分これ。

需要 > 供給

何が対象かによらず、まずはそういうことだと思います。
誰もがその人にとって必要なものを、
必要十分に手にしていれば、争う必要がない。

でも、ここで、私は二つの問題がでてくるのかなと。

ひとつは、現実の資源には限りがある。
もうひとつは、足りる、とは主観であり、心の問題である。

暇だったら遊びに来る人は、いつも忙しい。
余力がないので人を十分にケアできない?
きっとその人は余力があったら
別の何かにその余力を注ぐでしょうね。

これらの言及は程度の問題ですので、
実際には白か黒ではなく、
ある程度、真実を含んでるとは思います。

いつも忙しいよりは、
暇なほうが心には余裕があるでしょう。
水も衣服もなければ、命はそう長くない。

つまり。
「足るを知れ」とは言ってみても、
最低のライン、というのは現実にはあるでしょう。
それは心の問題とは言いがたい。

一方で。
需要のある資源、というのは、何も有形のものには限りません。
「安心感」だとか。
「楽しさ」だとか。
「ロマンス」だとか。
「争いのスリル」だとか。

そういった無形のものもあるでしょう。
こうしたものは、人が十分だと「思えば」それがすべてです。

こう整理してみると、
現実世界の供給について、問題があるものと、
消費する側の人の心について、問題があるもの。
両方あると言えそうです。

さて。
80億?を養うこの地球で、
供給が不足しているのは何でしょうね?

食料や水、衣服、住居は、「本当は」多分足りています。
なので、私はそれが問題だとは思っていません。
仮に本当に問題だとしても、協力して知恵を出せば、
確実に凌げる程度のことでしょう。
「なぜそれをしないのか」という話です。

だからきっと、「無形の何か」が足らないのでしょうね。

争わずして、終わりなき欲望に終止符を打つ。

たとえば、
40億を妻にしてハーレムを造りたい
強欲お化けが居たとして、
その人を許したまま可能…?

なるほど、難題ね。

そう私は思ったところで、
続きはまた、気が向いたときに
考えることにしました。

おしまい。

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