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大学院入試のための西洋哲学史の記録(メモ2024年1月)

はじめに

みなさんこんにちは。らりるれろです。

そしてすみません。「院試のための西洋哲学史を作るぞ!!」と息巻いていながら、最低限人前に出せるものを作ろうとするとかなりの年月がかかることに気が付き、早期の公開は断念しました。

その代わり、「とりあえずこのくらいのメモがあれば、阪大の臨床哲学と上智の哲学研究室はかなり余裕で=専門試験で9割取れるくらいで合格できるぞ」という指標の提示を目的として、僕が院試対策として作ったメモの公開に踏み切りました。

働きつつ、論文と研究発表の合間に少しずつメモ取りしたものになっているので、あまり体系的にはなっていません。ただ、(検索性には乏しいものの)存在論・認識論・倫理学・美学・科学哲学と幅広く調べながら作成したので、網羅性は高いかと思います。

ですのでこのnoteについては、一種の百科事典的参考書のような使い方をしていただければ幸いです。例えば、試験勉強をしていて「アクィナスの神の存在証明ってどういう内容だったっけ」と不安になったときに、このnoteの中で「トマス=アクィナス」と検索してもらって、その箇所に記載の内容を参照するようにしていただくと良いかと思います。

なんせこのnote、無駄に14万字あります。全部読もうとしないでください。なんとなく不安になったときにだけチラッと見る、そんな使い方をしてくれると嬉しいです。

それでは、どうぞ!


古代

パルメニデス

存在することと思考することの同一性
存在するものが存在する
この存在は思考において自らを言い表す(11)

「存在はある、無はない」
無は存在しない、無は思考されることも言葉にされることもできない。
哲学すること、それは存在を言葉にして語ることである。
哲学的真理、それは、存在と言説との同一性である。存在と無という対立と表裏をなす、ラディカルな二項対立、それは、真なるものと偽なるものという対立である。

→思考の可能性が、そのまま存在の可能性になる(存在は思考において自らを言い表す)。存在すると言える真なるものが存在する。存在すると言えない偽なるものは存在しない。


ソクラテス

ソクラテスの対話における4つの特徴(納富 2021: 377)

  • 現場

    • 対話は一度限り交わされる言論=ロゴスであり、現場の文脈に依存する

    • ソクラテスの対話は具体的な個人とかわす個別の言論で、決して一つの抽象理論に収束しない(Ibid.: 378)

  • 相手

    • 抽象的な真理の追究よりも、相手と自己の吟味を目指す。

    • 特定の相手に向き合った対話はその人の生き方を吟味して、その考え方と現実を変えていく(378)

  • 問答

    • 弁論術が長大な言論を一方的に語るやり方なのに対して、対話は短いやりとりからなる一問一答を大切にする(379)

  • 不知の自覚

    • ソクラテスは「知らない」という立場から相手を吟味して、その人の不知(≠無知:知らないのに知っていると思い込んでいること)を示す。「知らないのでその通り知らないと思う」ことが不知の自覚である。「知らないことを知っている」(無知の知)とは明確に異なる。(納富 2021: 379)

イロニー
彼は、なにか出来合いの知を空っぽの容器としての弟子のうちに注ぎ込むのではない。
ソクラテスは、矛盾を浮かび上がらせるイロニーによって、差異を回復し、弟子を自己自身に立ち返らせる。

ソクラテスは「知らない」という立場から相手を吟味して、その人の不知(≠無知:知らないのに知っていると思い込んでいること)を示す。「知らないのでその通り知らないと思う」ことが不知の自覚である。「知らないことを知っている」(無知の知)とは明確に異なる。(納富 2021: 379)

「不知」を表明するソクラテスは、知っているのにわざと控えめに知らないふりをして相手を論破する「空とぼけ」の人として人々に映っていた。この点については現在でも議論が錯綜しているが、重要なのはソクラテス自身が実際には「空とぼけ」ていないにもかかわらず、人々には知を隠しもつ「空とぼけ」に見えた点にあり、様々な文学的・心理学的・コミュニケーション的な「アイロニー」概念はそこから発展したのである(納富 2021: 380-381)。

ロゴスとソフィスト
ソクラテスは言葉(ロゴス)の証人だった。言語というものの本質、言語に内在する真理への志向ということに忠実である限りにおいては、言語は暴力の反対物となる。しかしもし言語が自らの本性を裏切るならば、言語は形式だけの技術(弁論術)に成り下がってしまうか、あるいは、力関係における武器であるような説得テクニック(詭弁術)へと転倒されてしまう。(14)

知と徳と幸福
「徳は知である」:良い医者となるには、医者とは何であるかを知らねばならない。自らの不知を自覚し、知を吟味することが善に繋がっている(384)。

善く生きることの追究は幸福をもたらす。正しく善い生き方をする限り、偶然や外的な出来事よってその人の善さ、つまり幸福が損なわれることはない。どうすれば善い生き方が可能かを追究することによって、善を挫折させる外的要因を見通すことができるからである(もちろん理想論的な話ではあるが)。


プラトン

洞窟の比喩
囚人たちが蒙っているのは、彼らに知が欠けているという意味での欠如なのではない。そうではなく、彼らが蒙っているのは、直接的な見かけ(現れ)の過剰なのである。囚人たちはその様々な見かけに、狂信的なまでに執着してしまっているのだ(15)。

囚人たちは、哲学者を仲介人として、見かけへの執着から自己を解き放つ。ただし、急に実在の方に向けられてしまうと、眩しさで目が眩んでしまい、新たな夜に侵されて盲目になってしまうのである(16)。

それゆえ、段階を追って真なるものに進んでいく必要がある。具体的には、準備教育的学問(算術、幾何学、音階学)をまず経由することが必要である。(16)

全ての真なる認識は、実は再認識である。見えている(はずの)ことを再び見出す。魂が知っていることを想起する。真理とは無時間的なものであり、いつもそこにある。無知とは、それゆえ忘却なのだ(17)。

イデア
実在とは、見かけの現れではなく、事物を事物として存在させている当のものであり、精神によって把握され、言語によって述べ表されるもののことである(17)。

イデアのおかげで、人は一なるものへと上昇することができ、見かけのものの多数性を捨てることができる。
イデアへの上昇のこのプロセスが問答法である。プラトンは問答法を「問ただし、根拠づける」技術として定義する。問答法は我々にあらゆる尺度にとっての尺度を、あらゆる仮説にとっての非仮説的原理を、発見させてくれる。(18)

イデア論の困難
イデア論にはいくつかの論理的困難がある。
諸々のイデアの間の関係というものを確立しないで、どうやって言説の要素を有意味に文節化することができるだろうか?そして、もし言説がイデアを対象とするものであるならば、なぜ偽なる言説というものが存在するのだろうか?

偽なる言説がなければ、真と偽の区別がなくなり、全ての言説は無に帰してしまう。だから偽なる言説は「必要」である。
とはいえ、パルメニデスに従えば、真なるものは存在するが、偽なるものは存在しない=無である。偽であるがゆえに存在しない言説は、いかにして語りうるのか。ここに乗り越え難いアポリアがある。

したがってプラトンは、パルメニデスを越えて行かねばならない。存在する存在と存在しない無との間に、第三のカテゴリーである「異」(「別の」「他なる」)を創設しなければならない。<同>と<異>、およびそれらの<混合>から世界が作られたと解釈することで、イデア論を維持しつつ世界の多様性/多元性を説明できる。<同>としての真へとつながっている魂=私たちの本質的部分は、同時に<異>としての偽にもつながっているのである。(19-20)

《善》のイデア
こうした地上的条件の元で、いかにして私たちの言語は、絶対的なものをわれわれに手渡すことができるだろうか?

諸々のイデアは事物の輝く本質ではあるが、諸々のイデアそのものはイデアを照らしイデアを智解可能にしている光なのではない。
実在と実在の条件は実在と智解可能性の彼方になる。この条件こそが、《善》である。それは《存在》ではなく、あらゆる智解可能な本質を超出しており、それゆえ決して言説の対象とはなり得ないものである。言い換えれば、哲学は厳密な意味で絶対的なものへの絶対的な知にはなり得ない。哲学は、哲学の智解では決して届き得ない絶対的知への愛にとどまる。
理性的言語は、言説の彼方へ向かうものへと場を譲らなければならない。これが観照(テオーリア)である。(21)

国家
『国家』において示された理想的国家=統治者・防衛者・生産者の調和によって統御された国家は不可能である。《善》の現実化と完全に一致し、現実の歴史の外部にあるような政治体制はフィクションでしかあり得ない(そもそも《善》は現実化されえない)。

では『国家』の議論は空想論に過ぎないかというと、そうではない。『国家』の真のポテンシャルは、マクロコスモスとしての国家とミクロコスモスとしての人間の魂との間の厳密なアナロジーを示している点にある。
統治者・防衛者・生産者の調和が取れた状態が国家の理想であるなら、人間の魂の理想は理性、気概、欲望の調和が取れている状態であると言える。正しい国家は、正しい魂のモデルであるのだから、人は理想の国家を自らのうちに体現するべきであるし、またその姿を国家のあるべき姿に映し出していくべきである。『国家』という著作の最大の価値は、この極めてシンプルで力強い格率の提示のうちに存する。(22)

美とエロス[r]
どのようにして、肉体のうちに埋め込まれてしまっている魂は、真の生へと到達することができるのだろうか?まさにここで、エロスによる媒介が介入してくる。

実在全ての中で、《美》のみが、見かけのもののうちでも自らを顕現させうるのであり、自らを感性化する。《美》を求めての探究は《エロス》という神によって生気づけられる。
エロスこそが、地上的存在としての人間と天界的存在の神との間の媒介であり、《愛》こそが、我々を絶対的なものへと憧れさせ、段階を踏みながら、アレコレの個々の美しい肉体から引き離して全ての美しい肉体を愛することに向かわせ、次に美しい魂、美しい行為を愛するよう向かわせ、ついには《美しさ》そのもへと飛翔させるのである。(23)


アリストテレス

知への欲望
「全ての人間は、生来、知ることを欲する」
人間は生まれながらにして、本質からして、絶対的なものの理性的認識を探し求めるものであり、そこへと向かおうとする欲望が我々のうちに深く穿たれている。(25)

自然的実在についての論
生成変化する自然的な実在は、形相と質料の複合体である。

この性質は、芸術制作において如実に現れる。
芸術制作は事実と原理を前提にして、それゆえ自然を模倣するものでなければならない。
一つのヘルメス像は、質料(大理石)、形相(ヘルメス神の形相)、目的因(ヘルメス神の表現)、動力員(彫刻家)という4つの原因によって作られている。芸術作品と自然的実在の違いは、後者は運動の原理を内在させている点にある。
(アリストテレスの存在論は、運動論であり、力学的である)。

形而上学の問題
しかし、自然的実在だけが真の実在であるわけではない。

自然的ではない何ものかに到達するためには「形而上学」が必要になる。形而上学とは、質料から離れ、自然を超えた彼方にあり、最も高次な事柄についての一つの学である。

それはどのような事柄だろうか。われわれはそうした事柄を優位性によって特徴づければ良いのだろうか、それとも普遍性によって特徴づければ良いのだろうか。

優位性によって特徴づける場合、最高の学問は神学になる。

神的な存在とは超越者であり、量や質・時間などの《類》に服するものではない《究極原因》にして《第一動者》である。

人間と行為
魂はもはや身体から離反しつつ身体の中に堕落しているものではなく、まさにそれは身体の形相であり、それなしには一つの身体は身体であることができないものだ。人間においては、魂は全ての機能を持ち合わせている。

完全に分離された、到達不可能な《善》それ自体を打ち立てたプラトンとは違い、アリストテレスはあらゆる善を何らかの目的として定義する。どんな行為にせよ、目的に適うことが善になる。

善は、それ自体目的でありつつ別の目的にとっての手段となるような相対的目的もあれば、決して手段になりえない絶対的目的もある。人間にとっての絶対的目的とは《幸福》である。

《幸福》という絶対的善の状態は、習慣によって獲得される。理性によって自らを導き、徳ある人間となることによって。

国家における生
国家とは単なる動物集団なのではなく、自由と理性との産物である組織と諸制度を要する。人間は政治的な動物だからである。

他者との関係を含む限りにおいて、《正義》は徳の全体である。だが正義は国家の最高次の理想なのではない。最高次の理想とは友愛である。友愛が統べるところでは、愛は不要になる。

究極の幸福
観照は究極の幸福への到達を可能にし、その活動が展開される程度に応じて、至上の快を伴わせる。

これは全ての人間に到達可能な目標ではない。この究極の幸福に到達可能なのは、ごく一握りの哲学者に限られる。つまり、人間がその本質に至るためには、ある意味で人間以上の存在(神的な存在)にならねばならない。


プロティノス

哲学的上昇の終局において人は、絶対的に第一の、絶対的に完全な《原理》を見出す。

世界の統一性(<一>)と、世界の多元性(<多>)をいかに調停するか
存在するもの全てを存在せしめる以上、その《原理》は存在を超えている。

存在を存在たらしめることは、すなわち「一つの」存在者たらしめることである。
存在の超越たる《原理》は、「一つ」の何かを存在たらしめる。この意味において《原理》は《一者》(ト・ヘン)と呼ばれる。

《一者》は全ての存在の可能態であり、その可能態はあらゆる場所に広がる(《流出》する)。

《一者》から流出してきた3つの実体が、《知性》、《魂》、そして物質的世界である。

《一者》は、その超越的性格ゆえ、あらゆる言説の把握から逃れる。ゆえに知性はそれを理解できない。

なので私たちに残されるのは、神秘的経験という重みである。発出—《一者》の物質に至るまでの下降—の運動に、還帰の運動が応答しなければならない。

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