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カントの言う「自由」な生き方とは

こんにちは、らるです。

今日は、自由についての話です。
自由と言えば、
なんとなく、

自分勝手に好きなことができる
的なイメージを持ちがち
ですが

そういうことではない…と
いった人がいます。


 カントによれば、権力者や宗教者が「正しい」ということを無批判に受け入れて従うのは、権威のいいなりになっているにすぎず、道徳的な価値はまったくありません。そうではなく、権威や伝統の語るものが道徳的に正しいかどうかを主体的に吟味し、理性的判断にもとづいて行動を選択するところに自由はある、とカントはいいます。そして、他人の意見に無批判に従うことを「他律」(ヘテロノミー)、自分自身の主体的で理性的な判断に従うことを「自律」(オートノミー)と呼んで明確に区別しています。
 つまり、カントにとって「自由に生きる」とは、人のいいなりにならず主体的に考える姿勢であり、そして主体的な判断に従って道徳的に行為することなのです。押さえておきたい点は、カントのいう自由とは「勝手気まま」「欲望の解放」ではない、ということです。自由とは「何が善いことなのか」(何が私の素質や能力を進歩させるか、何が他者の幸福に貢献するか)とみずからに問いかけながら生きるところにあるのです。

西 研. NHK「100分de名著」ブックス カント 純粋理性批判 答えの出ない問いはどのように問われるべきか? (p.105). NHK出版. Kindle 版.

カントによれば

「自由に生きる」とは、人のいいなりにならず主体的に考える姿勢であり、そして主体的な判断に従って道徳的に行為すること

だというんですね。

自分で考えて
自分で判断して行動する

ということだと言えば
確かに「自由」っぽさはありますよね。


このカントの「自由」の話で
個人的に大事にしたいのは

権威や伝統の語るものが道徳的に正しいかどうかを主体的に吟味し、理性的判断にもとづいて行動を選択するところに自由はある、

という部分です。

私自身、なんとなく
過去からの権威、伝統に
自然としたがってしまっている
ところが多く
(その方が楽だからなのでしょう)
よくよく考えてみたら

「なんで、こうしているんだろう?」
と、自分で理由が説明できないままに
やってしまっている
ことがあります。

これは、自覚はなかったですが
過去の人の「いいなり」になっている
ということ
でしょう。

これは、カッコよくないですし
面白くありません。

4月から少し立場も上がったことですし
ちょっと負荷はかかりますが

主体的に吟味する
自分の基準で判断する

ということを大切にしていこうと思います。

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