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ドラゴンボールについて思うこと

特別マニアックな知識があるわけではないので書くことには少々躊躇いがあったが、僕なりの感謝と追悼の意を込めて。


2024年3月8日、鳥山明氏の訃報があらゆるメディアを駆け巡った。

著名人の死に心を痛めることはよくあることだが、この訃報は(この表現は不謹慎であり失礼かもしれないが)別格だった。
とにもかくにも、衝撃を受けた。

会ったこともない、顔もよく知らない、人柄も伝え聞く程度にしか知らない、という情報量の少なさに反比例するように、異様なまでの喪失感を持ってしまう。
それほどまでに、作品という形で僕に影響を与え続けた人が去ってしまった。
ニュースで時折ときおり映されるご本人の写真や映像は見慣れなくとも、「鳥山ロボ」としての姿は幼少期の僕に「アバターの概念」を与えた初の存在だっただろうし、ドクタースランプ、ドラゴンボールは物心つく前から今でも、変わらず大好きな漫画、アニメであることは間違いない。


僕が小学生だった30年ほど前は、「アニメーション」「アニメ」「テレビアニメ」という言葉よりも、『テレビまんが』という言葉の方がしっくり来る時代だった(ような気がする)。
サブスクリプション全盛の今とは違い作品を観る手段はリアルタイムか、予約録画したビデオテープのみ。
ワクワクしながら毎週水曜日の放送を楽しみにしていた。
たまに野球中継で放送が無かった時のショックと言ったら…このせいで野球を嫌いになりかけたほどだ。

きっとあの頃に「曜日の概念」が形成されたような気もするし、カードダス(若い世代は知っているのだろうか)や単行本を買う為に、子供ながらに「親、祖父母への媚びの売り方」「節約」を学び、習得したようにも思う。

当時の大人の中には、作中に出てくる「ぶっ殺す!」「死ね!」「貴様!」などの言葉・表現をよく思わない人たちもいた。
戦闘シーンを良しとしない人たちも、やはりいた。

もちろんそれらが「良い言葉」ではないだろうし、自分の娘がそんな言葉を真似して使っていたら…と考えると何とも言えない所ではあるが、当時彼らの一部が主張していた「こんな残虐な描写を観ていたら将来ロクな大人になれない」は実証されなかったと、30年経ったいま思う。
(間違った形で体現してしまう人間も稀にいるにはいるが)

このあたり、令和の世になっても変わらない。
いつの時代も叩きたい人は何でも叩くし、「過剰なまでに清く正しい教育方針」を持つ方々もいるのだ。
たとえ純愛ドラマであっても捉える人間によってはストーカーや捻じ曲がった恋愛観の発生を助長するし、激しい戦闘シーンを観た少年が、将来的に人を守る仕事に就くことだって珍しくない。
結局は観る人間が、どう消化/昇華するかでしかない。

僕はドラゴンボールにどっぷり浸かった少年時代を過ごし「クリリンのことかー!」などと真似もしたが、随分前に社会人となった今、僕は取引先に対して「うちの社長のことかー!」とも言わなければ、名刺交換した相手を「貴様!」と呼ぶこともない。
もちろん、ミスを繰り返す若手をぶっ殺したりもしない。

会社の上役の背後を狙って気功砲や気円斬をこっそりと放てたらどんなに気持ちが良かろうかと企んだり、渋滞にはまり(舞空術や瞬間移動を使えたら)と想像することはあるが。
ちなみに僕は今日現在「気」をうまく操れないので、すべて未遂に終わっている。


追悼の気持ちも手伝って、Amazon Prime Videoで『ドラゴンボール改』を観始めた。
懐かしさと共に、新たな発見もある。

子供心に「とてつもなくダサい」と思っていたミスター・サタンは心優しい愛すべきオジサンだったし、子供の目には「口うるさい母親」「夫のやりたいことに余計な口を挟む恐妻」と映っていたチチは、家族思いの素敵な女性だった。

悟空やベジータに憧れた少年時代もとうに過ぎ、僕も40を過ぎた。
作品の本質自体が当時と寸分違わないものであることは明白なので、変わったのは自分の方だろう。
彼らの年齢(※セルゲーム時、サタン31歳、チチ30歳)をはるかに超え、さらには自分が人の親になったことも恐らく、捉え方が変わったことに大きく影響している。

きっとこの先も、たまに見返しては新たな発見をしていくのだろう。
そうなったらいい、とも思う。


イチ弱小noterのこの記事が届くことはなかろうが、私信を。

鳥山明先生

ドラゴンボールのおかげで、超の付くほど内向的で友達も少なかった自分でも、楽しい子供時代を過ごすことができました。
大人になった今は、多少は社交性も生まれ、今さらのようにドラゴンボールの話題を肴に、友人と酒を飲むようになりました。
本当にどうでも良い余談ですが、数年前に結婚した妻はアラレちゃんに似ています。

「ゆっくりとお休みください」「安らかに…」などという言葉を掛けるのが常識的でしょうが、僕としては自分が「あの世」に行く頃にまた新しい漫画を読めるよう、描き溜めておいて頂ければ幸甚です。
いちファンの身勝手なお願いですが。

信心深さというものを一切持たない僕が、死後の世界である「あの世」などと平気でポップに書いてしまうのは、完全にドラゴンボールの世界観の影響でしょう。
読み切れないほど沢山の作品を、楽しみにしています。

「ドラゴンボール」がある時代に生まれて、本当に幸せでした。
ありがとうございました。


リアルタイムでドラゴンボールを読み、観ながら成長できたことが、僕にとって貴重な体験だったことは言うまでもない。
そんな作品が、今の子供たちにとってもリアルタイムなものであるという事実に驚きつつも、同時に嬉しさを感じる。

今秋には新シリーズも始まるという。
偉大な原作者がこの世を去ってしまったことは残念でならないが、こうやって作品の世界が続いていくことは、ファンにとっては有難いことこの上ない。

次作、楽しみで仕方がない。


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