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その意思を、どうか大切にして欲しいから

カラエ智春さん

こんばんは。すっかり寒くなりましたね。
あたたかい体温を抱えながら羽毛布団にくるまっているのが至福で、夜も朝も起きられない季節になりました。

前回の交換noteをいただいてからもう1年以上経ちます。
あのときお腹のなかでうぃーんと身体を動かしてていた胎児は、ちょこちょこと家の中を歩き回るようになりました。
1年って長いはずなんだけど、目まぐるしくてとっても早かった。

このnote、本当に興味深かった。今日までに何度も読み返しました。

そもそも智春さんにとっての『死ぬこと』は、『かなしくもくるしくもない場所へ行くこと』だったんですね。
わたしは小さい頃、死ぬことがとても怖かったんです。それは『死ぬこと』が、その先にいったい何があるのかわからない暗闇に吸い込まれていくようなイメージだったからかな。
だからね、はじめから『怖い』と感じていない(語彙を増やしたら本心としては違ったということだったけれど)人もいるんだなあと感心するとともに、『死ぬのは怖いもの』とみんなが思っているのだという先入観を握っている自分にも気が付きました。

『死ぬこと』が怖くなくても、死ぬまでの時間をどんな人達とどう過ごすことになるのかがわからないのが怖い、というのも智春さんのnoteを読んでなるほどなあと頷きました。
たしかに超個人的な話を、初対面の人にしないといけなくなっちゃいますもんね。それを嫌だと感じる人もいますよね。
でもね、案外これって他人だから言えることもあるんじゃないかと思うんです。ずっと関わっている(いくかもしれない)人には言っていなかった(言えなかった)ことを、初対面の人やさらっとした付き合いの人には話しちゃったな…って経験ないですか?
普段は話題にしない内容であったり、新たな切り口から話すからというのもあるし、「これを言ったら関係性が悪くなるかもしれない」という心配をしなくていいから話せる、みたいなところもあるんでしょうね。
わたしにとってはこの交換noteもそういう類のものかもしれない。(念の為ですが、智春さんと関係性が悪くなってもいいと思っている訳ではありません。)

心の中のことだけじゃなく、身体のことも同じように、「痛い」とか「苦しい」とか、他人だから素直に言えるという場合もあると思います。
もちろん人によりけり、相性にもよりけりなところもあるので、一概には言えません。でも他人に託すのは、怖いことばかりじゃないんじゃないかな。

そういう中で働いていれば感じられることも、外からは見えないですもんね。
だから読んでもらって少しでも気持ちが和らいだのなら、本当に嬉しい。書いてよかったなと思っています。


わたしは大人になってから、怖いのは『死ぬこと』そのものもよりも、『死ぬ前にあれこれ苦しい思いをしたり、やりたいことが出来ないまま死んでいくこと』なのかもしれないな、と思うようになりました。
これにはきっかけになった本があります。

大学受験するにあたって、小論文や面接対策のためにも何か医療系の本を読んでおこう…という理由で、高校3年生のときに手にとりました。
医師である著者が、物語調でいろいろな人の終末期に立ち会ったときのことを書かれています。
まだ本人への病名や余命の告知が一般的ではなかった時代に、人としての尊厳を保ちながら死を迎えるにはどうしたらいいのかという問題提起をされた本で、すごくセンセーショナルでした。
わたしが終末期医療に興味をもつきっかけになった一冊であり、看護師としての自分の根っこにある本です。
智春さんは読まれたことがありますか?25年くらい前の本なので現在とは医療をとりまく状況は変わっていますが、今読んでも響く部分があると感じます。


前回のnoteにはこうできたらいいなあ、みたいなことを綴りましたが、実際の支援として、その想いが相手にも伝わるように動けているのかと問われると自信がないです。

多忙な業務に忙殺されたり、自身の力量不足だったりで、患者さんとの深いコミュニケーションをとるまでに至らないこともあります。
たとえ患者さんの望みを聞きだせたとしても、わたしたちのよかれを押し付けそうになってしまうこともあります。
本人が望むことと家族の望むことが違うということもよくあるし、家族の関係性によっては話し合うこと自体が難しいことも、お互いが気を遣って本音を言えていないこともあります。

当たり前のことだけど、患者さんにとってわたし達は外野からあれこれ言うだけの人です。
結局のところなにが出来るわけでもないし、難しいなあ、といつも思います。

でも病院で働く他の職種の人達(医師・理学療法士・心理士など)や、病院外で働く人達(ケアマネジャー訪問看護師・介護士など)と話していて思うのは、「患者さんの声を聴いて、その想いをかなえたい」と考えて動いている人が多いんだな、ということです。
みんなそれぞれの立場からの違いはあるだろうし、考えが患者さんとすれ違ってしまうこともあるだろうけど、そこを目指して歩いている。

だから、きっと大丈夫。
願いを込めて、そう言いたい。

さて、では今回のお題。

Q .運転免許証や健康保険証の裏側にある、臓器提供についての意思表示って、どんな効果があるんですか?

死ぬときってすごく大雑把な分け方をすると、「突然」の時と「ゆっくり」の時がありますよね。

「ゆっくり」の時というのは、何らかの病気が見つかって徐々に死に向かっていくイメージ。
その中で医療者とどんな最期を迎えたいかや、死後の希望を伝えるタイミングが(おそらく)あると思うんです。

だけど交通事故や心筋梗塞で「突然」意識不明の重体みたいな状態になれば、医療者に対して自分の意思を伝える術がありません。
それを解消するひとつの手立てが臓器提供意思カードや運転免許証・健康保険証のこの欄の存在です。

「脳死」と「それ以外の死後」の欄があるのは、提供できる臓器に違いがあるからです。

だから答えとしては『亡くなったとき(脳死状態になったとき)に臓器提供意思に関して自分の意見を、確実に遺せる』でしょうか。

ただ移植医療を行っている病院というのは限られていて、わたしはそういう病院に勤めたことがないし、これまで患者さんが臓器提供の意思を示している場面に立ち合ったことはないんですよね。
なので少しずれるのかもしれませんが、『意思表示』という観点からちょっとお話ししようかなと思います。


ちなみに臓器提供の流れだとかは、このHPに詳しく載っていました。

本人と家族の意向が食い違った場合はどうなるのか、という質問もあったので、現在の臓器移植法がこうなっているというのをまず見てください。

本人の意思が「提供しない」と明らかに明示されている場合は、家族に訊くまでもなく「提供しない」方向で普段と同じような看取りになると思います。

これがもし「提供する」になっている場合、次に必要なのが家族の同意です。臓器提供って症例数も少ないし、なかなか大きな決断ですよね。
臓器提供に限らずこういう大きな決断を迫るとき、中心になって説明を聞く家族(キーパーソンとか代理意思決定者と呼ばれたりします)とともに、(コロナ禍以前では)本人と関係性の深い家族にはなるべく全員病院に来てもらって、みんなで説明を聞いてもらうということが多かったです。

特に本人や配偶者がご高齢の場合、どうしても年相応に理解や記憶や判断をする力が落ちている場合があり、今後の方針を決定するときは状況に応じて、子や親戚(甥姪)などにも説明の場に立ち会ってもらいます。
そうすることで、自宅で再度話し合う時にも噛み砕いて説明したり、本人の意向を上手に引き出してもらえたりもします。

どこまで来てもらうかというところに(おそらく)明確な決まりはなくて、家族の関係性にもよるし、医師の裁量でされているように思います。
ただ仮にキーパーソンひとりにしか説明が出来ない場合でも、その人から状況を伝えてもらった上で、なるべく『本人・家族の総意』としての決断をしてもらえるよう伝えているのをよく見かけます。

それで同意が得られれば「提供する」、得られなければ「提供しない」方針になるかな。

ちなみに上のリンクにあるように今は法改正がなされて、本人の意思が「不明」の場合にも家族の同意があれば臓器提供が可能になっています。



昨今の医療現場では、臓器提供に限らず手術はもちろん、造影剤を使うような検査、輸血や血液製剤の使用に至るまで「同意書」が必要です。
本人が同意したという署名はいずれにも必要なんですが、身体への侵襲度が高いもの(治療・検査により本人とのコミュニケーションが取れなくなる可能性があるもの)やデメリット(副作用)の可能性が大きいものほど家族の署名も必要になる印象です。

つまりは、「自分の同意」だけでなく「家族の同意」がないとできない医療行為があるわけです。

だから家族に普段から自分の意向を伝えておくことって、とても大事なことなんです。
治療や検査だけでなく、今後をどう過ごしていくか(例えば退院後は自宅に帰るのか、施設に入るのか…など)も含めて方針を決めていく際、家族の同意抜きに話が進むことはありません。
本人がどんな状態になったとしても、最期を看取っていくのは家族ですもんね。
これは医療訴訟のこととも大きく関わってくる部分なので、智春さんはきっと頷いてくれますよね。医療訴訟を起こせるのは、遺された人たちだから。

医師から本人だけでなく家族にも説明することで齟齬もうまれにくく、「同意書」として書面に残すことで、本人と家族に対して説明と同意がなされたという証拠を残すようにしているのです。
ちなみに同意書は、雛形になっていることがほとんどだと思います。そうすることで説明する医師が違っても、必要なことを抜けがなく説明できるようになっています。

考えたら治療って「説明」と「同意」の繰り返しですすんでいくんですよね。「この降圧薬(血圧を下げる薬)は効果が薄いようなので、違う種類のものに変えてみましょうか」「はい、お願いします」みたいなやり取りは、院内では日常的にあるので、そういう意識って薄れていました。


人生会議やACP(advanced care plannninng)ということばを聞かれたことはありますか?(小藪さんのポスターで一時期話題になった人生会議は、ACPの愛称です。)

ACP(Advance Care Planning)とは、将来の変化に備え、将来の医療及びケアについて、 本人を主体に、そのご家族や近しい人、医療・ ケアチームが、繰り返し話し合いを行い、本人による意思決定を支援するプロセスのことです。(日本医師会HPより)

病気が進行してくると家族側からは最期のことについて切り出すのが難しくなったり、本人がそれについて考えるほどの身体的・精神的余裕がなくなったり、はたまた認知症の進行や病気に起因する意識低下が起こって意思表示が出来なくなったり、ということが起こり得ます。
そういうことが起こるもっともっと前の段階から、家族や医療者と話し合いながら、どのような最期を迎えたいかについての自分の意思を決めていきましょう、ということになるかな。

体調が悪くなったら病院に行き、診察・検査そして診断を受け、医師の説明を聞いて最善と思われる治療を行っていくのが一般的な流れのように思います。
でも反対に、体調が悪くても病院に行かない、病気が判明しても治療を受けない、そういう権利だって当然あります。
なにをどう選ぶかは、本人の自由。
医療者には医療者の考える最善の道があって、それを提示していくのがわたし達の仕事ですが、その助言を実行するかしないかは本人にしか決められない。

わたしが病院という場所で大人の患者さんに関わりはじめた最初の頃は「なんでこの人たちはこんなに色々病気のことやその管理のことをみっちりと聞いて帰るのに、全くそれを守らずにまた入院してくるんだろう?」と怒りを感じていたこともあります。
でもその怒りって医療者側のエゴなんですよね。
本人が腑に落ちていないのに、そうしたくないのに、しないといけない理由なんてどこにもないんです。
それを解るのには時間がかかりましたが、その患者さんの選択も(選択という意識ではなく行動されている場合も多々ありそうですが)当たり前のものとして受け入れられるようになってきました。

だからそういうしたくないことも含めて、自分の意思をどこかに残しておくこと、その意思について日頃から家族と話しておくことは、遺される人に対するやさしさでもあるかなと思います。
遺される人って、亡くなった人のことを想ってああすればよかったかもと、選ばなかったタラレバを考えてしまうことがあります。
どちらを選んでもそれは起こりえることなんですけど、そのことについて明確に意思を表示出来る段階で家族に伝えることをしていたら、本人の意思に添える確率はあがるわけで、遺された人のモヤモヤも少しは軽くなるかもしれない。
自分の想い描く最期を迎えるためでもあり、遺される人のためでもあります。
もちろんその意思を知っていても状況的に叶えることが出来なくて、逆に苦しい思いをすることもあり得ます。

それでも思っていることを表に出せないのは、さみしいなあと感じるんです。
そのためには家族としてしっかり話し合える土壌や、それを叶えるだけの関係性や状況が整っていないとなんともならないのが難しいところなのですが。
理想を言うなれば、そういうやさしさが増えて欲しい、本人にも家族にも「こんなはずじゃなかった」と思うことなく人生の最期を迎えて欲しい、というのが医療者としてのわたしの願いです。


こういう意思ってね、一回決めたら貫かなきゃいけないと思ってしまいませんか?
臓器提供意思表示カードに記入してしまったら、医療者に今後のどうしていきたいかの意向を伝えてしまったら、もう曲げることはできないみたいなイメージないですか?

でもね、それ、貫かなくてもいいんですよ。
ここ、わたしもACPのことを学ぶ中ですごく大事だなと胸に刻んでいるところなので、もう一回言います。
意思、貫かなくてもいいです。

これは臓器提供意思表示に限ったことではなくて、医療を受ける上で、もっと言えば生きていく上での話です。
ACPの説明にも入っていますが「繰り返し話し合いを行う」ことが大切です。
身の回りの何かが変われば、気持ちも変わることがある。それが当たり前だし、それでいいんです。
その都度、どうしたいかを考えながらよく話し合って、新たに示していけばいい。

それを保証されているから、現時点での意思を選べるんだとわたしは思います。

ちょっと話は脱線するし、もしかしたらこの先に苦手な表現があるかもしれません。先に謝っておきます、ごめんなさい。


10年程前、海外を旅しているときに中国の東チベットと呼ばれる地域に行って、『鳥葬』という葬儀方法があることを知りました。いや、鳥葬自体を知ったのは伊坂幸太郎さんの小説やったかな、でも実際にやっているところがあると知ったのはそのとき。
鳥葬って書いて字のごとくで、ご遺体を鳥が食べる葬儀方法です。土葬をしても高地で気温も低くバクテリア分解がされないことや、燃料になる木がないので火葬出来ないことからなされている方法のようです。

遠くからね、その鳥葬が行われているという場所を見ると、大きな鳥(ハゲワシ)がばっさばっさと飛んでいるのが見えたんです。

亡くなった後のことだから当然なにも感じないはずなんですけど、その葬儀を想ったときに、あの大きな鳥に身を裂かれていくのか、と身震いがしました。
さらには、きれいに食べ尽くしてもらえるようにご遺体を切り刻むこともあるのだと知って、ものすごい衝撃を受けました。
いや、そんなこと言ったら火葬だって一緒な気もするし、日本では罪にあたること(死体損壊)をしているから抵抗が強いだけなのではとも考えたけれど、それでもなんだろう、いたたまれない。
普段は出てこない自分の奥のほうにある部分が、それを拒絶するような感覚。

後にチベットではご遺体は魂の抜けたただの肉の塊という認識だ、となにかで読んで合点がいったんですよね。
そうか、わたしは亡くなった後でも魂がまだそこにあるように感じているんだなと。
そして亡くなった人が傷つけられている、ぞんざいな扱いを受けていると受け取って、ショックだったのだなと。

わたしに限らず『亡くなってもまだそこに魂がある』みたいな感覚って、日本人の中に根付いているんじゃないか、と個人的には思っています。
患者さんが亡くなられた後にも話しかけたり身体に触れたりするご家族は多いし、亡骸を丁重に扱われる風潮も強いことから、それをひしひしと感じます。


なんでいきなりそんな話をしだしたかって言うと、このnoteを書きながら読んでいた本のなかに『日本では脳死後の臓器移植がすすまない』という話が出てきたからなんです。
何かが自分のなかでパチンと繋がったみたいで、この体験がふっと蘇ってきました。


『脳死』が『人の死』になったのは、そもそも『法律でそう決められたから』なんですよね。
もちろん、不可逆的な状態で、何日かすれば心臓も止まることが予測された状態ではあるんですが。

ニュースに目を通すような学生ではなかったけれど、法律として制定された当時ずいぶんと騒がれていたことだけは記憶にあります。
心臓が止まると、意識はなくなるし、動かなくなるし、体温も失われていくので、たぶんだれもが納得の線引きですよね。(でも調べていたら、日本の法律には『死』の明確な定義がないということがわかってびっくり…!そうなのね…。)
だけど、心臓も止まっていなければ体温も失われない状態を『死』と定義づけたんですもんね。


智春さんも最初のnoteに書かれてましたけど、臓器移植に限らず体外受精とかクローンとか、『医療』と『法律』、もっと言えば『命』と『法律』って切っても切り離せないところにあります。
荒っぽい言い方かもしれませんが、『命の裁量』は『法律という枠組み』のなかにあるのだなと、今回強く意識しました。

これらが良いとか悪いとか、賛成とか反対とかは、きっと人の数だけ答えがあると思います。

わたしは、今のところ自分の臓器提供はしないと決めていて、夫にもそう伝えています。
でも、臓器提供自体に否定的かというと、そういう訳では全くありません。
仕事で心臓移植を待っている人達と関わることがあって、それは希望であり、生きる糧にもなっていることは肌で感じています。

選択肢として開かれていることは、いいことです。
ただ、自分はしたくないなと。そういうことです。


もしもある人に犯罪的傾向があるとして、その傾向が備わった原因が『生活環境』であったり、『教育』であったり、『(治療可能な)病的傾向』であった場合、司法が罰しているのは一体『何』なのか、ということです。

『性格』を罰している?
『病気』を罰している?

犯罪が裁いているのはなんなのか、という前回の智春さんのnoteにあった問い。
犯罪者と呼ばれる人達に傾向があるということは、なんとなく見聞きしたことがあります。
でもね、こんな風に考えたことはなかった。

これは法律の側面にいる智春さんと医療の側面にいるわたしの視点の違いなのか、はたまた単純に智春さんという人間とわたしという人間の視点の違いなのか。
それはわからないし、きっとどちらもあるんでしょう。

ふと気が付いたんですけど、わたしはこの『命の裁量』についてすごく興味があるみたいなんです。
直接的に話をするのは夫くらいなんですけど、同僚とも仕事に関する情報交換とかディスカッションみたいなことをしているとそれがうっすらと見えることもあります。
でもなかなかそれ以外の人と話をする機会ってなくて。
こういう視点の違いをもっともっと知りたかったな、とちょっと悔しく思っています。

他にも医療訴訟の判例を例に挙げて、議論してみるのもおもしろいだろうな、なんて考えたりします。

なんだか長くなりました。
智春さんからの質問に、変化球を投げ返してしまったかな。
これまでに書きたいなと思いながら書けずにいたことを引き出してもらったようで、蛇足かしらと思いながらあれこれ付け足してしまいました。

たくさん時間があったはずなのに、なかなかこのnoteを出せる形に出来なかったことが不甲斐ないです。
なんかね、今が育休中だから余計なのかもしれませんが、普段暮らしているときと全然違うギアに入れないと書けなかったんです。それが難しくて。
あとは自分の医療に対する知識や考え方の浅さが浮き彫りになって、言葉にして外に出すことに自信がもてないから余計にうまくすすめられへんのやなって、書きながら気がつきました。

でもね、このことを考える時間や書く時間はとても充実してたんです。
いつか自分の書いたものにぶん殴られるかもしれないけど、これが「現時点の」自分だから書ききれたことが嬉しい。

それにこの交換noteをする中で、智春さんからいただいた言葉は宝物です。

ありがとうございました。
またTwitterでお話ししましょうね。

このnote及びマガジンを読んでくださったみなさんへ。
智春さんがnoteを退会される予定ということもあり、とても残念ではありますが、この交換noteはお終いにすることになりました。
ずいぶんと期間が空いてしまったのに、ここまで読んでくださった方には感謝感謝です。
本当にありがとうございました。


ここまで読んでくれたあなたは神なのかな。