第八回 あなたはYouTuberを笑うのか?(2)

多くの成長過程において、フィードバックは重要な役割を担う。おおざっぱに言ってしまえば「フィードバックなきところに、成長なし」である。フィードバックがなければ、進歩なんてまず存在しない。

射的をするとしよう。あなたは目をつぶって弾を放つ。弾を放つ、弾を放つ。どれだけ続ければ的の真ん中に当てられるようになるだろうか。

もちろん、目をつぶっている限りは望むべくもない。自分が撃った弾が右にずれた、ということがわかってはじめて行動の修正ができる。さらに修正した行動の結果もわかると__今度は左に大きくずれた__、少しずつどうすればいいのかがわかるようになってくる。それを繰り返すことで、望む行動へと近づいていける。

自分が取った行動の反応が手に入る(=フィードバックがある)からこそ、人は前に進んでいける。

このフィードバック・サイクルがきちんと機能していると、人は熱心にそれに取り組み、成長の階段を上っていける。プログラミングの面白さも、自分が書いたコードの結果が即座に返ってくる点にあるし、料理や手近な物作りの面白さもここにある。

さて、ブログが黎明期のころは、今に比べれば存在しているブログの数は少なかった(それでも十分には多かったわけだが)。そして、そこに一定の読み手がいた。

何かを書くと、反応をもらえる。その反応を踏まえて、新しい工夫なり反省なりをする。そうすると、また反応をもらえる。ようするにフィードバック・サイクルの素地があったわけだ。そのような循環を経て、それぞれのブロガーは少しずつ成長していった。そして、そこに充実感や面白さみたいなものも感じていただろう。

その後、爆発的にブログが増えた。するとどうなるか。反応をくれる読み手の数が足りなくなる。すると、ただ更新するしかない。それでは成長の可能性は小さいし、そもそも楽しくもない。

もともと黎明期でも、反応をもらえる確率はそれほど高いものではなかったが、今ではそれが圧倒的に難しくなっている。

さらにやっかいなのは、ブログの内容である。数が増えただけではなく、似たようなブログが増えた。本人から見れば違うブログなのかもしれないが、読者からすると区別できない。当然、そうしたものにフィードバックは返って来ない。だって、同じような記事を二つ三つ読んだとして、それらすべてにリアクションとったりはしないだろう。

黎明期のころは、何か書けばそれだけで「オリジナル」であった。他のブログのことはあまり考えなくてもよかったのだ。たぶん、そういうのは「先行者利益」と呼んでも差し支えないだろう。(ある意味で)恵まれた環境の中で、フィードバックを糧にして成長していくことができたのは幸運だったに違いない。
※と他人事のように書いているが、私もそのうちの一人である。

逆に言えば、現代で始めたばかりのブログ(言い換えれば、これから成長していくブログ)が、フィードバックをもらえる可能性は著しく小さくなっている。

するとどうなるか。考えられるのは、極端な手法や過激な表現が好まれるようになることだ。というか、そうしたものを使わない限り、フィードバックがもらえなくなりつつある。似たようなブログが乱立する中で、何かしら目立とうと思えば、大きな声を上げるか、奇抜な行動を取るしかない。ようするにそういうことだ。

ここに後追いの難しさがある。

誰かがこういう方法でうまくいきましたと、紹介する。そういう方法は、それ以外の方法に比べて、成功率が高いように感じる。なにせ「実例」があるのだから、説得力は十分だろう。しかし、そういう考え方にはいくつかの視点が抜け落ちている。

一つには、時間が経ったことで環境が変化していること。金が掘り尽くされた後の金鉱に潜っても、望む成果は得られないだろう。時間の変化は、さまざまな変化を引き起こす。

もう一つは、そうした成功例がシェアされたことで、参加者の総数が増えていることもある。一人なら優美に泳げるプールでも、300人も同時に入ってしまえばぎゅうぎゅう詰めでろくに動けない。つまり、参加者が増えていることそのものが環境の変化であり、以前の成功法を機能不全にしてしまう。

変化のきっかけなんて、実際はほんのちょっとしたことなのだ。自分の書いた記事が面白いと言ってもらえる。たったそれだけのことでモチベーションやら書き方が変わってきたりする。そうした変化が次の変化を呼び、ぐるぐると車輪が回った結果、大きな変化として立ち現れてくる。

しかし、参加者が増えすぎてしまった環境では、見つけてもらうのが難しくなる。言い換えれば、一番最初のフィードバック__車輪を回す最初の一押し__がもらえる確率が下がる。それは、成長できる可能性と得られる充足感も下げてしまう。

しかし、時計の針は戻せない。昔は良かったからといって、タイムマシーンは存在しないのだ。かといって、極端な手法や過激な表現にも近寄りたくない。

だったら、どうすればいいのだろうか。何が必要なのだろうか。

それは「コンセプト」だ。前回紹介したYouTuberのMEGWINさんの言葉をもう一度引いておこう。

だってさ、あまはるくんの編集技術は普通に上手いし、映像も綺麗だし特に何も言うこと無いのよ!まあ企画はどっかで見たことあるやつばっかりだけど

ようは「どっかで見たことある」のでない企画を打ち出せればいいわけだ。その一番省力的な方法が過激な表現を使うことだが、必ずしもそれだけが選択肢ではない。際立ったコンセプトがあれば、大勢の中にあっても見いだされやすくなる。そうなれば、車輪の最初の一押しが得られる。

ただし、問題があるとすれば、「○○さんはこういう方法で成功しました」という宣伝文句でその道に入った人は、別にそれがやりたいわけではない、という点だ。単に「成功」するための方法として、それを使っている。言い換えれば、自分の中に何かやりたことや表現したいとこがあり、その手段としてブログやYouTubeを使っているわけではない。

つまり、そこには「コンセプト」の種が欠落している。

「コンセプト」の種とは、その人の中にあるどうしても言いたいことや表現したいことである。それがなければ、際立ったコンセプトなど生まれようもない。だから、「どっかで見たことある」企画ばかりになってしまう。

ようするに、始めた瞬間から袋小路なのだ。

部屋に入る鍵は手にした。でも、その部屋を抜け出るためのドアの鍵はまだ手にしていない。そして、その二つの鍵は全然違う形をしているのだ。

では、一体どうすればいいだろうか。

もちろん賢明な人であれば、そういう場所には近づかないだろう。時間が経ってしまって後発の参入者には不利となっている土俵でわざわざ戦う必要はない。仮に戦うにしても、先行者が使った武器は決して用いないはずだ。その武器の有用性が知られていればいるほど、実際の有用性は下がるわけだから。

よって、何かしら自分の武器となるものを、自分で見つけ出す必要がある。それができるなら、あるいはそれをやる意欲があるなら、何かしらの成果は得られるかもしれない。逆に言えば、そういうのをやる気がないのなら、得られる成果もそれ相応ということになるだろう。四捨五入すれば時間の無駄である。

でもだからって、僕たちはYouTuberを笑うことができるのだろうか。望む成果が得られる見込みが小さいことに必死に取り組んでいる人たちを嘲笑できるのだろうか。

いやそんなに主語を大きくする必要はない。僕は彼らを笑うことができるのか、というのが一番考えたいことである。そして、よおぉく考えてみると、どうしたって笑うことはできない、という答えが出てくる。

(つづく)

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