見出し画像

MP連載第二十八回:タスクリストを作らなければ

長年タスクリストと一緒に生活をしています。
一日一枚のデイリータスクリスト。それを指針に(あるいは補佐に)して、一日の活動を進めています。

今よりも若い頃は、ずっとシンプルでした。8時間ほどのバイト勤務時間でやるべきことを「今日やることメモ」として書き留める。それくらいだったと思います。

店長の仕事をするようになって、どうしても一日単位の仕事管理では回らず、プロジェクト情報を扱うようになってタスク管理は複雑化していきましたが、それでも一日一枚のデイリータスクリスト作りを欠かしたことはありません。

しかし私は、そうした「欠かしたことがない状況」を自覚すると、一度「欠かして」みたくなります(天の邪鬼なのです)。私はそれを「日常にノイズを加える」と呼んでいるのですが、欠かしてない行動を欠かしてみることで、それが持つ価値が見えてきやすい、という効能が期待できます。

そこでタスクリストです。

毎日朝に作成しているデイリータスクリストを作らなければ、一日はどうなるか?

解放。でも何からの?

まず自由になります。これはとても不思議な感覚ですが、しかしそう表現するしかありません。自由に感じられるのです。

単純に考えて、タスクリストを作成した私Aと、タスクリストを作成していない私Bは、どこを切り取っても、自由度に関しては同じなはずです。片方が牢獄に入れられたり、いかつい看守に監視されたりするわけではありません。しかし、異様なほどに私Bが自由を感じることはたしかです。

それは──たとえいかつい看守がいないにせよ──、タスクリストを作成してしまうと、タスクリストを作成した私が、日中の行動を行う私を監視するからでしょう。「監視」という言葉はもちろん誇張的表現ですが、ようするに私が分裂してしまうのです。計画を立てた自分と、実行している自分が分かれてしまう。そして、瞬間瞬間の判断を行う私(流れ続ける自意識の中心)が、過去の時点の私(記録上にある私)からの制約を受けてしまう。評価の参照点が生まれてしまう。その点が不自由さの感覚を引き起こすのでしょう。

とは言え、これは正確な表現ではありません。なぜなら、タスクリストを作成している私は、不自由さなどまったく感じていないからです。ただ、タスクリストを作らない日があると、そこに自由が(あるいは何かからの開放が)感じられる、というだけです。

この結果を間違って演算してしまい、タスクリストを作ると不自由だ、と判断してしまうのは、実は早計なのです。あくまで、相対的な感覚の差異でしかありません。

自由の代償

では、自由な感覚が得られる他にはどうなるか?

作業忘れが頻発します。驚くくらいです。人はこれほどまでにやるべきことを覚えておけないのか、ということがまざまざと体感できます。

「やるべきこと」が覚えておけないだけではありません。自分が何かの行動を取ったのかどうかすらわからないことがあります。「あれ、今日ってブログ更新したっけ?」そんな自問がたびたび発生します。たいへん非効率であり、不安です。

不安という点で言えば、一日の作業の全体量が可視化されていないので、その点も非常に不安です。どこまでやったのか、後どのくらい残っているのかがわからないままに作業を続けるのは、精神的にハードな作業ですし、きっとキリキリとMPを浪費しているのではないかと想像します。

見えない効能を記述する

もちろん、やるべきことが一つしかなく、それを達成すればその日はどうすごしても構わないという貴族的な生活を送っているのならば、上記のようなことはまったく気にせずに済むでしょうが、細々とした作業がたくさんある場合は、やはりタスクリストは有効です。少なくとも、私の「自分実験」においては、それは確認されています。

しかし、です。

毎日のようにタスクリストを使っている私には、その効能は案外と見えてこないものです。人間は繰り返される行動や状況からは差異が感じられなくなるので、「当たり前」のことだと思ってしまいます。空気がそこにある、というのと同じように感じられるのです。

このことは、タスクリストを使っていない場合にも言えます。一日脱タスクリストをした私が感じていたような不安感も、MPの浪費感も、毎日それが繰り返されているならば、それが「当たり前」の状況となり、物事の出発点・判断の基準点となります。

やや強めに言えば、そこでどれだけMPが浪費されているかは自覚されることはありません。にも関わらず、タスクリストを作成すると、自由さが損なわれる感覚がしてしまいます。これでは、「よし、やってみよう」と思うのは相当に難しいでしょう。

本連載で「MP」という概念をわざわざ持ちだしているのも、この壁を乗り越えるためです。タスクリスト・ビフォー/アフターの世界は、非常にイメージしにくいのです。体感のシミュレーションが困難である、と言い換えてもよいでしょう。

「MP」というやや抽象的な概念を持ち出すことで、体感の記述からでは想起しにくい状況の変化が少しでも把握されやすくなるのではと期待しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?