第二十八回 社会におけるメディア(4)

人は情報に囲まれて生活している。情報から影響を受け、価値観を醸成し、行動に結びつける。

どのような情報が周りにあるのかは、想像するよりも重要である。

その重要性は、情報化社会を生きる(あるいは構成する)市民一人ひとりが認識しておきたい。

(1)で、メディアは聖職者であると言った。数字では評価できないその影響に向けて行動を続けるという点、そしてそこに宿る矜恃、そういったものだ。

どこかでテロが起きたとする。メディアは、そこでどんな情報を流すだろうか。いろいろなスタンスがある。正確さには目をつぶってまずは速報を送る。あるいは時間をかけてでもしっかり裏付けをとってから情報を流す。それらによって、その情報を受け取る人々の行動や考え方は変わってくるかもしれない。そう考えると、責任が肩に乗っかってくる。

「デマでもいいから、とりあえず適当に流しちゃえ。正当性は情報を受け取った人が判断するから、それでいいだろう」などと混乱する人々に対して言えるだろうか。少なくとも、メディアの主体者として言うべきではない。

仮に有用な情報が流れていたとしても、もしそのメディアが市民から信頼されていなければ用をなさない。ここからも、単に情報を流せばメディアのメディア的役割が果たせるわけではないことが見えてくる。聖職者という言葉に潜む信頼感がそこでは物を言うわけだ。

「どんな情報を流すか」だけではない、「どんな情報を流さないのか」も意味を持つ。首切り動画を流すのかどうか。それを目に見える数字、つまりPVだけで判断したらどうなるだろうか。

恐怖をまき散らすことがテロリストの狙いならば、メディアはそれに荷担したことになる。それだけではない、そうした動画を見た未成年が精神に被るダメージもある。でも、そんなものはPVにはまったく現れてこない。

むろん、これは極端な話をしている。しかし、情報が人の心、ひいては人生に影響を与えることは重々承知しておきたいところだ。それが、メディア、つまり情報を流す存在として、最低限意識しておかなければならないことである。たとえその主体が個人であっても、届く先が不特定多数であるならば話は同じである。

「風説の流布」というものがある。投資家の投資判断を狂わせるために、虚偽の情報を流す行為だ。この行為は証券取引法で禁止されており、「五年以下の懲役もしくは500万円以下の罰金」にあたる。もちろん、主体が個人でも変わりない。

少なくとも証券取引の世界では、虚偽の情報を流すことは刑罰の対象である。なぜなら投資家は世に流れる情報を参考にし、自己責任で投資活動を行うからだ。流れている情報が欺瞞に満ちていたらどうなるだろうか。投資家は怖くて投資を避けるだろう。そうなれば、お金の流れが止まってしまう。だからこそ、上場企業にも企業内容の開示が義務づけられているわけだ。

まっとうな情報を流すことが場を維持するために必要だし、また意図的に混乱を生じさせる情報を流すのは、場の崩壊を促してしまう。信頼関係がぼろぼろに崩れ去っていくのだ。

それは偽札が大量に流通している国で買い物したり、給料を貰うために働くことを考えてみればいい。どうしても不信感がついて回るだろう。それは全体の流通コストを上げ、ときには完全に止めてしまう。

情報の流通に関しても同じことが言えるだろう。

現代は、社会のロールモデルに従っていれば幸せな人生がやってくると信じられる環境でもないし、「お上の言うことをきちんと聞いていれば」な世の中でもない。さまざまに流れる情報を使いながら、人々が自分で人生を作っていく(あるいは作って行かざるを得ない)社会である。今後さらにそういう傾向は強まっていくだろう。

そんな中でどのような情報流通が確立されるかは社会的な問題になっていくはずだ。

情報を流すことは、他の人に影響を与える。あるいは社会そのものにも影響を与えることもある。そこでは、「どんな情報を流すのか、あるいは流さないのか」「どのように情報を流すのか」が鍵を握る。こうした要素は、よく言われる「情報リテラシー」の一部でもあろう。

そのリテラシーは、単に自分がうまく情報を利用していくだけに留まらない。健全な情報化社会の維持・発展において必要なものである。だからこそ、情報媒体としての自覚が求められるようになる。

そうした素養については、どこかの時点で「教育」に組み込まれるのかもしれないし、あるいは草の根的にそういう情報が出てくるのかもしれない。どちらにせよ、今後はそうした意識の「啓蒙」(と呼ぶしかないので、そう呼んでおく)が増えて行くに違いない。

そして面白いことに、そうした情報の流し方が、自分の価値としても返ってくる。そのことについては次回また考えてみよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?