2000日目のログイン

今日パズドラを立ち上げたら、2000日目のログインをお祝いされた。

もらった魔法石はすぐにゴッドフェス二回分となり、二つとも金色の卵だったので、少しの悲しみである。まあ、ガチャなんてそんなものだ。

それにしても2000日である。約5年半。私は(自称ながら)結構なゲーマーだが、さすがに5年やり続けているゲームはほとんどない(つまり、いくつかはある。ボーダーブレイクがそれだ)。

大抵の据え置きゲームは、短期間でやり混んで満足感で満たされる。ときどき、ディスガイアみたいなどれほどやり混んでもきりがない、みたいなゲームもあるが、さすがに情熱は続かない。数ヶ月もすれば、ルーチンワークに飽き飽きして別のゲームに移る。そういうのが当たり前だと思っていた。

しかし、パズドラは2000日である。よくもまあ、飽きもせず毎日ゲームができるな、と思ったのだが、実際考えてみればもう飽きているのだ。飽きもせずに続いているのではなく、飽きているのに続いている、というのが本当のところだろう。

たしかに、アップデートはあるし、新しい要素も追加される。パズドラは、他のゲームに比べると、パワーインフレの要素も結構少ない。無課金でも遊べるし、そもそもの部分が「パズル」であるので、その部分の楽しさはある。が、そうは言っても、である。

これは一体何なのだろうか、と考えてしまう。

この手のソーシャルゲームには基本的に「終わり」というものがない。攻略できるダンジョンをすべて攻略し尽くしたところで、それは「やることがなくなった」だけであって、ゲームクリアではない。そんな概念はそもそも存在していない。

つまり、無限である。

しかし、その無限性は幻想でしかない。思う利益が上げられなくなったら、サービスは終了し、たとえそう願ってももう一度ゲームをプレイすることはできなくなる。今でもファミコンのゲームができることに比べれば、ここにある有限性は実に致命的だ。命と同じように、一度損なわれると二度とか選ってこない類の有限性。それがソーシャルゲームである。

だからこそ、その終わりの絶対性を知っているからこそ、今日も私はパズドラをプレイしてしまうのかもしれない。終了のないゲームの、その終了のときまではずっと寄り添っているように。

もちろん、すべてを投げ出してしまうこともあるだろう。しかし、案外「すべてを投げ出す」のにはパワーがいるのである。それよりも、他愛のない日常を繰り返している方がずっと楽だ。そう。飽きるくらい手に馴染んだことならば、認知資源をほとんど使わずにプレイできる。だからこそ、今日も私はパズドラをプレイするのである。

はたしてこれがゲームと人間のwin-winな関係なのかはわからない。それは音楽聞き放題サービスが、音楽の試聴体験にとって真に喜ばしいものなのかどうかがわからない、というのと同じ意味で不可解である。

その意味が明らかになるのは、文化的な影響がでる5年や10年後のことになるだろう。はたして、そのときまで私はログインボーナスをもらい続けることができるのだろうか。

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倉下忠憲

ライトなエッセイ集

軽めのエッセイ集です。
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