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たった一つのメッセージ/箱が持つ力/断片をいかに捨てるか

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2019/08/12 第461号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。 毎度おなじみの方、ありがとうございます。

二週間ほど前から、微妙に体調が悪いな〜という感じが続いていたのですが、先週になってあまりに食欲がなく、体のダルさも半端ないことになっていたので、病院に行ってみたら急性胆嚢炎と診断されました。5日分の抗生物質と療養です。

幸い薬を飲んでゆっくりしていたら、体調は回復しました。食欲も戻り、ダルさも消えております。よかった、よかった。

不思議なもので、この復調の瞬間は「世界中の人々と物事が幸福な方向に進んでいきますように」と祝福したくなる気持ちが湧いてきます。極端なことを言えば、「普通」に戻っただけなのに、そのことに対する感謝の気持ちが、自身からあふれ出て世界へと流れ出しているような、そんな感覚が生じるのです。

毎日そのような気持ちを持って過ごせれば、きっと幸福値メーターが振り切れるくらいに幸せな日々を送れそうですが、だいたい人間というものは「普通」に慣れてしまうので、やがてはその感覚も消失していくのでしょう。

だから、ときどき訪れる「普通」でない状態というのは、たぶん価値があるのだと思います。

〜〜〜メモのない日〜〜〜

本当に体調がまずかった一日は、ほとんどツイートもせず、一つのメモも残しませんでした。メモ魔の私としては異例の事態です。

でもって、ツイートもメモも残っていないと、その日のことについて何一つ再生できないという事実を思い知りました。まるで、記憶の中でその日だけがぽっかりと欠落しているような、そんな感覚です。

しかし、逆説的ではありますが、他の日のメモが残っていることによって、その欠落の存在が確認できます。「書いてない日」があることが、「何も書けなかった日」があったことを強調するのです。

もし何一つメモを残していないのならば、この欠落の感覚すら覚えなかったことでしょう。もしかしたら、それは幸福なことなのかもしれませんし、そうではないのかもしれません。なかなか難しいところです。

〜〜〜民王〜〜〜

フリーランスであり、ワーカホリックぎみな私にとって、「療養」がもっとも難しい行いの一つです。ついつい、考えごとをしたり、メモを書き記したりしてしまいます。

そんなときに役立つのが映像作品です。疲れていて本のページがめくれなくとも、映像作品なら視聴していられます。そして、家から一歩も動かずに、大量の映像作品を摂取できるAmazonプライムビデオは最高の療養パートナーです。

というわけで、『容疑者Xの献身』を観、『帝一の國』を観ました。そのままオススメに表示された『民王』というテレビドラマも最終話まで視聴しました。がっつりそれだけで一日つぶせます。ひさかたぶりに、仕事をしたという感覚がまったく湧かなかった一日です。

で、その『民王』(たみおうと読む)という作品は、親子の体・意識がチェンジするというコメディー政治物なのですが(面白いですよ)、作品中で「体が入れ替わった」という表現が使われています。この手の現象を表現するときによく使われる表現です。

不思議と、その現象を指すときには、「意識が入れ替わる」という言い方は使われません。入れ替わるのは必ず「体」の方です。それは、認識の主体が意識にあるからなのですが、一歩引いて考えると、「意識が肉体の所有者」という感覚を象徴する表現でもあるでしょう。

体の方からしたら、入れ替わったのは「意識」なのですが、その「〜〜からしたら」というのが「認識≒意識」なわけで、結局意識を主体として表現せざるをえないわけです。

体の入れ換えというのは、もちろん滑稽な空想的側面を持ちますが、一度それについて考えてみると、意識や主体についてよりラディカルに考えられるようになるかもしれません。

〜〜〜Ulyssesの値引き〜〜〜

ライティング・サポートアプリの「Ulysses」が値引きしているそうです。

私は、Ulyssesがサブスクリプション・モデルに移行して以来使うのを止めていましたが、これを機会にちょっと復活させてみようかな、という気持ちになりました。なぜかと言えば、バリバリUlyssesを使っていきたいから、ではなく、最近使っているSpacemacs + org-modeとの違いを確かめたかったからです。

Spacemacs + org-modeでやっているメモ・文章管理法があり、たとえばそれがアウトライナーではどう動くのかを並行して確かめています。やはり、似ていてもツールが違えば異なった部分が出てくるので、まったく同じようにはいきません。でもって、そこで感じられる差異が、その「メモ・文章管理法」についての理解を深めてくれます。

同じように、アウトライナーとはまた違った機能を持つUlyssesでも試してみることで、新しい差異を得られることでしょう。また、三つのツールで共通することが言えるなら、普遍性に近づくことができますし、アウトライナーでもUlyssesでも言えないことがあるならば、それはSpacemacs + org-modeの特色として浮かび上がってくるはずです。

というわけで、最終的にUlyssesをメインに据えることはないだろうな、という予感がありながらも、一年間だけUlyssesを復活させてみることにしました。いろいろ試してみるのが、今から楽しみです。

〜〜〜文芸雑誌〜〜〜

普段はほとんどまったく、どんな雑誌も買わないのですが、読みたい記事がいくつかあったので、『文學界』や『新潮』という文芸雑誌を続けて購入しました。一冊はだいたい1000円くらい。高いと言えば高い気もするし、高くないと言えば高くない気もする、微妙な値段です。

本当に興味がないので、目的の記事以外はちらっと目を通しただけで終わりました。そういう読み方ができるのが雑誌の良いところです(でもってそれが、高いのか安いのかよくわからない理由でもあります)。

そしてそれが、「需要にダイレクトに要請されないコンテンツ」を育んでいくための場にもなっているのだろうな、と思います。

雑誌という場があり、その場が要請するコンテンツがあり、そのコンテンツから生成される本がある(あるいは認知される著者が生まれる)。

こうした文芸雑誌を買っている人は、それ自体で(つまり雑誌を定期的に購入しているという行為自体で)、その場の形成に貢献しているのでしょう。でもって、その貢献は、決して可視化されない貢献なのだと思います。数値で測定して、その「効果」を測ったりはできない貢献です。

そんなことを考えながら、「こりゃ、今後もしっかりかーそるを運営していかないとな」と思いを新たにしました。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

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 デジタルアーキテクチャの未来。誰も描けなかったGAFA後のビッグピクチャー。人類の生存戦略はすべて書き換えられる。SNS“遺伝子”による衝撃の「新・進化論」
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 日本SFの誕生から百五十年、“未来”はどのように思い描かれ、“もうひとつの世界”はいかに空想されてきたか―。幕末期の架空史から、明治の未来小説・冒険小説、大正・昭和初期の探偵小説・科学小説、そして戦後の現代SF第一世代まで、近代日本が培ってきたSF的想像力の系譜を、現在につながる生命あるものとして描くと同時に、文学史・社会史のなかにSF的作品を位置づけ直す野心作。
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 村上春樹と村上龍。『ノルウェイの森』と『コインロッカー・ベイビーズ』で一躍、時代を象徴する作家となったふたりの村上。 その魅力と本質に迫る吉本隆明の「村上春樹・村上龍」論。16年間の思索の軌跡を示す全20稿を集成!
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〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. メモ・日記・日誌など、一日に関することを書き残しておられますか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。

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2019/08/12 第461号の目次
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○「たった一つのメッセージ」 #これから本を書く人への手紙2

○「箱が持つ力」 #知的生産の技術

○「断片をいかに捨てるか」 #知的生産の技術

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

○「たった一つのメッセージ」 #これから本を書く人への手紙2

こんにちは。進捗はいかがでしょうか。もりもりバリバリ文字数が増えているならば結構なことですが、サイコロで奇数の目が出るくらいの確率で、あまり進捗はうまれていないかもしれません。そんな心配があります。ええ、体験談からの推測です。

今回は、そんなときに役立つ話をさせてください。これは、以前にお話しした「執筆における大切なこと」の一つ目の話でもあります。

とは言え、その話を聞いたからといって、じゃんじゃんばりばり進捗が生まれることはないでしょう。指で突いたら相手が爆発してしまうような、そんな進捗の秘孔があるならば、私も知りたいものです。私がここでお伝えしたいと思っているのは、いわば指針の発見です。

本を書くことは、とても簡単で、とても難しいものです。

簡単だというのは、本の書き方には「正解」と呼べるものがないので、どう書いたところで「間違い」にはならないからです。絶対に間違えないのだから、それはすごく簡単なことではあるでしょう。

一方で、「正解」がないからこそ、どう書いていいのかわからない状況も生まれます。Aという書き方でも、Bという書き方でも、Cという書き方でも、どう書いても構わない。どう書いても、それが「間違い」になることはない。これはつまり、本の書き方は無限の可能性を持っていることを意味します。

そして、そのような可能性に晒されるとき、私たちはそこから何かを選び取ることができなくなります。これが、執筆の難しさです。簡単であるがゆえに難しい。なかなか厄介な代物です。まるで、人生のようではありませんか。

もちろん、「こう書いた方がいいんじゃないか」「こうしてみたらどうだろう」と検討してみることは健全ですし、本の質を高める上で必要なことでもあるでしょう。しかし、「どう書いていいのか、わからない」のような悩みにとらわれたときは注意してください。それは、修辞疑問というか答えのない疑問です。どう書いていいのかなんて、誰にもわかりません。God only Knows.

「どう書いていいのか、わからない」のような思いにとらわれているときは、問いの立て方そのものが誤った方向を向いています。そう考えていたところで、いつまで経っても答えは得られないでしょう。なにせ、どう書いたって別に構わないのですから。

私たちには、別のものが必要です。無限の選択肢という大海原を乗り越えていくための、別の何かが。

指針を持つことは、その点で有用です。私たちが、その本に込めたい、あるいはその本を通して伝えたいこと。ここではそれをメッセージと呼びますが、それを明確にすることが、一つの解決策となります。メッセージが明確になれば、無限の選択肢は、十分に有限な選択肢に絞り込まれます。大海原に、やっと海路が生まれるのです。

とは言え、青色の猫型ロボットがポケットから取り出す道具と同じように、問題を一気に解決してくれたりはしません。選択肢が有限に絞られたところで、まだ選択肢自体は残っていますし、それ以上にメッセージを明確にすることも一朝一夕にはいきません。

ある程度運がよければ、それは本を書き始める前にはっきり形になっています。いかに書くかは、そのメッセージが生きるのかどうかで判断していけばいいでしょう。しかし、そこまで明確になっていない場合もあります。それも、少なくない場合でそういうことが起こります。

では、どうすればメッセージは明確になるでしょうか。目次案をじっと見つめる? 悪くない答えではありますが、十分ではありません。目次案は、本の全体を支える構造であり、言い換えれば、メッセージを十全に伝えるための織物ではありますが、その時点では、メッセージが目次案に織り込まれていないことがありえます。そこにないものを、どれだけ眺めていても、それが浮かんでくることはないでしょう。

だったらどうすればいいかというと、それはもう本文を書くことしかありません。ほとんど残酷なまでに逆説的ですが、本文を書いていくための指針は、本文を書いていく中で得られるのです。あるいはそれは「得られる」というよりも「浮かび上がる」が近しいかもしれません。あるいは「選び取る」という言い方でもよいでしょう。

複数の文章が並び、それらの順列を決めようとするとき、「これはどうしても削れないな」と思えるものがあるとしたら、それがメッセージである可能性があります。あるいはメッセージを構成するパーツかもしれません。

目次案のアウトラインを整えるときでも同じです。自分はこれらの章立てを通して、一体何を言おうとしているのだろうか。それを常に意識してください。最初はそれがはっきり見えないかもしれません。見えたとしても、勘違いの可能性もあります。だから、本の内容を整えようとするときには常にそれを意識するのです。

「自分は、この本を通して、読者に何を伝えたいのだろうか」

そのメッセージは、「多ければ多いほどよい」とは言えないものの代表例です。むしろ、少なければ少ないほど、むしろたった一つだけあれば十分なものです。

そのメッセージを伝えるために、本を構成するすべてのパーツが機能していること。それが、本の完成度としてはもっとも高い状態でしょう。

もちろん、いつもそんなに完璧にいくわけではありません。本を構成するパーツが、たった一つのメッセージとうまく呼応していない。そんな状況もあり得ます。しかし、たとえそうであっても、その本を読んだ人が、そのたった一つのメッセージを受け取ってくれる程度に、本全体が統一されているなら、それで十分です。多少の「不純物」が混じっていても、それで本の価値が汚れることはありません。

そうなのです。この伝えたい、たった一つのメッセージは、別方向からの有限性ももたらしてくれます。それは「書けることの限界性」とでも呼べるものです。

本は、あらゆる書き方ができますが、現実に存在する不完全な私たちは、そのすべてをフォローすることはできません。「こう書ければいいのだけれども」という思いがあったとしても、そうは書けない私、というのが厳然として存在していたら、そう書くことはできません。

10年かけて修行すれば書けるようになるのかもしれませんが、締め切りが二ヶ月後ではどうしようもないでしょう。この世界には、精神と時の部屋は存在しないのです。

だからここでは、理想よりも現実を手にしなければいけません。素晴らしい、しかし頭の中にしかない理想ではなく、貧弱な、しかし現実の自分が書ける原稿を生み出すのです。

それは、悪い言い方をすれば「諦める」ということですが、ここに「たった一つのメッセージ」が関わってきます。つまり、「このたった一つのメッセージさえ伝われば、あとはどうでもいい」と考えるのです。述語を変えるならば、「割り切る」という言い方にもなるでしょう。

世の中の著作物は、この理想と割り切りの綱引きの結果生まれています。誰だって、理想に溢れた本を書きたいものですが、現実を代表とするさまざまな誓約がそれを許してくれません。それに、本当に理想を追い求めたら、きっと人は何も書けなくなるでしょう。だから、ある程度で、有限性を引き受けることは有用です。少なくとも、そうすれば原稿は生まれます。不完全であっても、文字が入った原稿が。

書けないことについてどれだけ考えていても、原稿が生まれることはありません。それはつまり、本が作れない、ということです。それは困ったことですよね。

だからまず書きましょう。自分が伝えたいたった一つのことをめぐるメッセージを書きながら探し、整えながら探していきましょう。いろいろなことを考えるのは、その後で構いません。そして、それが私が伝えたいことの二つめのお話でもあります。

それについては次回またお話させてください。

(つづく)

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