第二十六回 社会におけるメディア(2)

再び梅棹忠夫氏の『情報の文明学』より引く。収められている「放送人の誕生と成長」からの文章だ。

しかし、ときたま虚業意識が心をかすめることはあっても、日常は、放送人がこのような自己否定の論理を採用しているわけではない。けっきょく、なにに生きがいをもとめて、あれほどのエネルギーを注入するのかといえば、番組の商業的効果ではなくて、その番組の文化的効果に対する確信みたいなものがあるからではないかとおもう。

梅棹氏は慎重な手つきで、放送人の意識を解きほぐしていく。単純に割り切れるものではない。しかし、根源には「番組の文化的効果に対する確信」みたいなものがあると言う。そしてそれは、「番組の商業的効果」ではない。

少し後に、こんな文章もある。長くなるが引いてみる。

じつは、ある一定時間をさまざまな文化的情報でみたすことによって、その時間を売ることができる、ということを発見したときに、情報産業の一種としての商業放送が成立したのである。そして、放送の「効果」が直接に検証できないという性質を、否定的にではなしに、積極的に評価したときに、放送人は誕生したのである。もし、放送の商業的効果をあげるだけならば、それは広告宣伝業である。放送人の内的論理は、広告業のそれとはあきらかにちがっている。

二つ重要な指摘がある。

一つは、情報産業の文化的な側面は数字では測定し得ない、という点。もう一つは、文化的な側面を強調するとき、放送産業は広告産業とは異なる顔が浮かび上がる、という点だ。

前回書いたように、放送産業の繁栄は広告産業への注力により達成されてきた。でも、それは誕生したばかりの放送産業が持っていた方向性とは異なったものだった。情報産業と広告宣伝業は違う業種なのだ。当然、その意義、役割、社会的貢献において違いを持っている。

梅棹氏のこの眼差しは、すぐさまドラッカーのそれと重なる。彼は企業に社会的意義を求めた。むしろ、それが当然という風であった。社会に情報を流す、あるいは社会の情報流通を助けることは文化の育成および発展に寄与する。それはそのまま社会を作ることにつながる。

そのような行為の「効果」を直接は測定することができるだろうか。仮に無理矢理測定しようとすれば、矮小しかねる危険性すらある。

数字には表しにくい「効果」を求めるからこそ、そこには意義や誇りが生まれる。矜恃というのはそういうものである。そして、その効果は社会全般にわたるものだ。だからこそ、誇りや矜恃といったものが大切になってくる。もしそうしたものがなければ、「利益を上げるためなら、悪疫となる情報を流してもOK」となってしまう。

いや、そういうのはルールで規制すればいいじゃないか、という声が上がるかもしれない。それはまったく話が逆である。業界で共有されるルールというのは、業界的な矜恃を明文化したものである。だから、ルールがあるから守るというのは本末転倒だ。そのおかしさについては、環境が変わっても古いルールに固執し続ける人の愚かしさを指摘すれば十分だろう。

マスメディアがテロ組織の益となる情報を流さないのは、ルールで規制されているからではなく、そうしないことが自分たちの役割であると認識しているからだろう。それを周知徹底するためにルールが制定される。

そのような「自らが持つ矜恃や価値観」がなくなってしまえば、ルールそのものが自己目的化してしまう。ルールに従っておけば問題ない、ルールにさえ違反しなければ何をしてもよい。そんな風に行動が流れてしまう。もちろん、それは歪んでいる。

ルールは強制力を持つが、絶対ではない。いつでも、必ず、正しく、機能するものではない。間違えもあれば、取りこぼしもあるし、時代遅れにもなる。だから、大切なのはそのルールを生み出すもととなった矜恃や価値観の方だ。そうしたものが一切なくなれば、誰も機能不全を起こしたルールを変えなくなるだろう。

いささか勇み足かもしれないが、僕はとりあえずこう言おうと思う。

メディアは情報のパイプラインではない。右から左に情報を流すだけのものではなく、それ以上の意義を持っている。

それについては次回も考えていこう。

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