第十七回 ブログと読者と広告と

一時期、「広告ブロック」なるものが話題に上がっていた。最近は下火である。少なくとも、そういう気がする。まあ、そんなものかもしれない。こういうのはデフォルトでないとなかなか広まらない。

しかし、「広告ブロック」問題は、ブロガーに一つの問いを突きつけた。「あなたのブログにとって、広告とは何なのか?」という問いだ。

僕はGoogleのAdsenseをずいぶん前に外した。今使っているのはAmazonのアフィリエイトだけだ。これも本の表紙画像を使うためのおまけみたいなものである。

そもそもページから本へのURLが無くなったら、困るのは僕ではなく読み手の方だろう。少なくとも僕はそう思う。だから、読み手が自分の意志でアフィリエイトを表示しない選択をするなら、僕はそれを受け入れる。困ることは特にはない。

もちろん、そんな気楽なことが言えるのは、アフィリエイトで発生する金額が、せいぜいサーバー・ドメイン代や書籍代のプラスアルファにしかなっていからである。それが生活費の中心であれば、断固として拒否・拒絶していただろう。逆に言えば、僕はブログのスタンスを崩さないために、それを生活費の中心にしたくないと考えている。

それは是非や善悪ではなく、価値感や美意識の問題でしかない。しがないブロガーの、しがないこだわりというわけだ。

GoogleのAdsenseを外したのは、自分がそれをまったく見ていないことに気が付いたからだ。他のブログを見ていても、そうしたバナーをクリックすることは皆無だった。むしろ、ページの内容にそぐわない画像広告が表示されて、違和感を覚えることもあった。テキストの広告なら簡単に読み飛ばせるのだが、画像だとなかなかそうはいかない。しかし、どうも画像を使った方が「うまくいく」らしい。

だったらもう、うまくいかなくてもいいし、うまくいこうとさせないなら、やらなくても変わらない。そんな判断だ。

同じように、「これはお勧めです」とガジェットやアプリを毎週・毎日のようにプッシュしてくるブログも読まなくなった。そんなに財布に余裕はないし、時間の余裕もない。もっと、ゆっくり生きていきたいというのが、個人的な感想である。

そういう記事は、ガジェットを求めている人が検索してページを読む分には問題ないが(一度だけの読者)、毎日読むとなると少々ヘビーである。最初の方はついていけても、やがては興味がなくなる。

逆に、「これはお勧めです」と書いていなくても、紹介される本が気になって仕方がないブログもある。僕は基本的に本は書店で買うので、そのブログのアフィリエイトを踏むことはほぼない。でも、その人が紹介した本は読んでいる。そういう関係もある。ついでに言うと、そういうブロガーさんが自分で書いた本なら即座に買う。そういう関係もある。

さて、自分はどちらを向いて歩いて行こうか。考えるまでもない。

僕は常々「自分」を基準において考えている(だからマイナなのだろうが)。僕にとって、ブログにおける広告とはおまけ、あるいはせいぜいが付随物でしかない。少なくとも、そういうスタンスで自分はブログを読んでいる。だから、自分が書くブログも同じである。

さすがに「広告的なことは一切書かない」と宣言することはできない。そもそも自分の本は思いっきり宣伝しているのだ。でも、どこかに、何かしらの線引きは必要だと思うし、そもそもそれは主従関係で言うところの従である。僕は宣伝のためにブログを書いているわけではない。ブログを書くために、ブログを書いているのだ。その関係だけはぶらさないでいきたい。

そして、おそらくそれをキープしておくことが、僕にとっての「メディア的な生き方」につながっていく予感がある。「何かと別の何かをつなげる」生き方だ。R-styleを購読していなければ読まなかった本、考えなかったこと。読者さんがそういうものと出会えたら、これにまさることはない。単なる自己確認のためのメディアではありたくない。揺さぶる何かが必要なのだ。

所詮は自己満足なブログだが、そういう「メリット」を期待していても悪いことではないだろう。

常々浮かんでくる問いがある。

「それって、あなたがやるべきことなの?」

他の人ができることを自分でする。悪いことではない。でも、何かが欠けている気がする。埋まらない気がする。

別にアイシュタインのような発想が必要なわけではないし、村上春樹のような文体が必要なわけでもない。特別な情報源も、尖った審美眼も必要ない。ただ、「自分が書けること」(※)を書いていけばいい。その行き着く先は、必ず物真似ではない場所になるだろう。
※アクセントは当然「自分が」にあるわけだ。

で、何かを埋めるものは、そこに眠っている。あるいは何かを埋めなくてもいい気持ちがそこにはある。

ユーザーのリテラシーが高まっていけば、広告はどんどんクリックされにくくなっていくだろう。そんなことはすぐにイメージできる。この記事を読んでいるような人は(なにせマイナだ)、もうほとんどバナー広告をクリックしないのではないか。自分のブログにそれを貼っている人もそうだろう。

今はまだ過渡期だから、クリックは発生する。それに誤クリックもある。でも、広告があまりにも過剰になりすぎたことで、すでに広告は嫌われる存在になりつつある。どのくらいのスパンかはわからないが、やがて関係性は変わっていくだろう。

すると、当然あれが生まれる。ステルスマーケティングだ。広告でないものを装う広告。

ステマはしない方がいい。読者を裏切ったら、二度と信頼を回復できないから。

実は、そんな風に自分一人に帰結できる問題ではない。実際は、Web記事そのものへの不信感を育てる行為なのだ。自分の畑だけの問題だと思っていたら、世界の土壌を汚染していた、ということが十分に起こりえる。

だから、これまでの産業は団体を作り、しぶしぶながらルールに合意してきた。でないと、業界そのものの存続が危ういからだ。同じようなことはWebにも必要だろう。

もう、遅いのかもしれないが。

ブロガーは、ブログというメディアの編集長である。どのようなスタンスを取るのかは、自分で決められるし、自分で決めないといけない。たぶん、それは一つの練習であるのだろう。社会と関係性を持つ、という練習だ。

「あなたのブログにとって、広告とは何なのか?」

という問いは、実は別の表現がある。それは、

「あなたのブログにとって、読者とは何なのか?」

である。

僕のブログにとって、読者とは僕のことだ。自分に損害を与えるようなことを自分ではしない。あえて言うまでもない自明のことだ。

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