11歳:先生は作文の鬼

りゅうちゃんは作文が嫌いだった。

いや、いま作文「が」と書いたけれど、語弊があった。
算数も嫌いだったし、理科のことも全然わからなかったし、リコーダーも吹けなかったし、鉄棒もできなかった。
だから訂正してやり直し。

りゅうちゃんは作文も嫌いだった。

それなのに4年生の時、 加藤先生が担任になってしまったのだ。
この先生は読書感想文に日記に遠足や運動会の記録まで、学年関係なしに、なにかにつけて作文を書かせる方針の先生で、まるで“作文の鬼”だった。
だから、全校児童のあいだで「加藤先生だけは担任になったら嫌だな」と陰で言われていた。

もう一つ、受け持ちクラスの児童には夏でも冬でも短パンを穿かせようとする方針で、作文の鬼だけなく“短パンの鬼”でもあった。
デブで足の短かったりゅうちゃんは、そんな理由からも加藤先生が担任になったことがショックだった。

一学期が始まり、作文の鬼という異名はダテではないことがすぐにわかった。
一週間に一度は作文の課題が出されたのだ。
提出しなければいかなる理由があっても、教壇の前に並ばされてビンタされるので、みんな必死に書いたものだった。たまに男子も女子もビンタされたけれど。

文字を綴るというより、いかに「、」とか「。」といった句読点を使って400字詰め作文用紙のマス目を埋めるかという作業に腐心するばかりだったので、当然ながらりゅうちゃんの作文はつまらなかった。

けれど、一度だけ作文で褒められたことがあった。
それは『物語をつくってください』というお題で、みんな自由に創作をするものだった。
男子はドラクエ風の冒険話、SF、昔ばなし、女子はメルヘンやファンタジーの物語を自由につくった。
加藤先生はおそらく夜な夜なそれをワープロ打ちしたのだろう。それをワラ半紙に印刷して、ホッチキス止めの製本をしてクラス内で回覧したのだった。

この時、りゅうちゃんは人生で初めて脚光を浴びることとなった。
男の子たちが隊列を組んで、ナントカ山に財宝だかなんだかを探しに行くドタバタのコメディ冒険譚を“処女作”として発表したところ、クラス内で大ウケしてしまったのだった。
「あのデブで何やらせてもダメなりゅうちゃんに、そんな才能が」と、級友だけでなく父兄の間でもザワつきが起こるほどだった。

その時からりゅうちゃんは少しずつ作文嫌いを克服していった。
その一件との因果関係はわからないけれど、やがて自分の書いた文章を人に見せることに抵抗がなくなり、大人になってからはモノを書く仕事に就くことになるのだった。

加藤先生はりゅうちゃんがどんな大人になったのか、きっと知らない。
そして、りゅうちゃんの処女作が掲載されたホッチキス止めのワラ半紙の本の行方も、わからないのだった。

(完)

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