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乞ひ=恋【#夏の香りに思いを馳せて】

今もこれからも
好きになることは100%無いと分かっていた。
だから断ろうとおもっていた。
そのとき──彼の声がきこえた。

◇◇◇

「お前の食べ物の好み、いろいろ聞かれたよ、桜井から。付き合って三ヶ月は経つよな?お前らどうなってんの?」
 健史たけしは呆れ顔で声を張り上げた。彼が声のボリュームを上げるのは大勢の人間が周りにいるからで、それはここが打ち上げ花火会場の近くだからで、まだ明るい時刻でこれだから、暗くなったらどれだけ混み合うか、と考えると、僕は少々げんなりする。それでも誘いを断らなかったのは、健史が面子に含まれていたからだった。
 少し先の方には出店やキッチンカーがならび、どの店も人で賑わっていて、辺りはお祭りのような雰囲気だ。僕らは食べ物を買いに行った女子二人を、少し離れた日陰で待っているところだ。あと二人、男子が合流する筈だった。僕はスマホをチェックし、連絡がまだないことを確認する。

「桜井なんて言ってた?」
 水を向けると健史は、女子っぽく指を折って数え始めた。
「ええっとぉー焼きそばと鯛焼きとたこ焼きどれが一番好きかなとか、コーラ飲むかな、ラムネがいいかな、いや炭酸じゃない方がいいかも、キャラメルポップコーン買うべきかな……とか色々」
「似てる。桜井ってハイテンションの時はそういう、畳みかける喋り方するよね」
「じゃなくってえ、未だにお前の好みを知らないって。デートとかしないの?」
「してるよ、普通に。僕はなに勧められても、それでいいよーって受け入れるから。桜井としては確認したかったんだろ」
「お前、昔から物欲ないもんな」
「そんなことない。むしろ人より欲深い方だと思う」
 健史は驚いて目を丸くした。
「そうなん?ひええ意外。なになに、なにがそんなに欲しいん」
「秘密」
「今さら?俺とお前の仲じゃん。こそっと教えてよ」
 健史は耳に手を当て、おどけた様子で顔をこちらに寄せてきた。僕はゆるく微笑んでみせながら、彼の自然でくつろいだ態度のなかに、隠された本心を読み取ろうとする。表面は上機嫌に見えるけど、もう桜井のことは気持ちの整理がついているんだろうか。

 健史とは家が隣同士で、幼稚園から高校二年の現在までずっと同じ学校だ。お互いのことはほくろの位置からおねしょの数まで知っているが、性格は正反対だった。
 健史はいつも人の輪の中心に居て、人懐こく誰からも好かれる。対する僕は来るものは拒まないが、物でも人でも自分から働きかけることは滅多にない。けれど僕たちは不思議とウマが合い、たいてい二人で過ごしていた……三ヶ月前、桜井が僕に告白するまでは。
 実際に付き合ってみれば、思っていたのと違う、とすぐに愛想を尽かすだろう。そう考えていたものの現実は何故かそうならず、今も僕と桜井は別れていない。桜井はこんな男のどこが良いんだろう。怒ったり乱暴したりはしないけど、愛想はないしマメさはもっとない。デートの時も、行き先を決めたり喋ったりは専ら桜井だった。なるべく丁寧な対応を心がけているけれど。

 手元のスマホが鳴った。合流組が会場に到着したのと時を同じくして、買い出しに行っていた女子が戻ってきた。僕らの周囲は一気に賑やかになる。

 桜井は抱えた大きなビニール袋を目の前で開いて、中の包みを見せながら満面の笑みで「平間くん、鯛焼き、カスタードとチョコ。ご飯系もあるよ、カッテージチーズとチーズトマト、どっちがいい?」と尋ねてきた。僕が答える前に到着組の滝田が「なによ俺らには訊いてくんないの?」と冷やかすと、もうひとりの女子、雨宮あまみやが「いいじゃん、生ぬるく見守ってあげようよ」と、とりなした。
 健史は袋を覗き込み「タクはトマト系好きだからチーズトマトがいんじゃない?」と僕と桜井の顔を交互に見て言った。桜井は笑った。
「健史くんって、ほんと平間くんのこと詳しいよねぇ」
「健史は僕のこと、僕より詳しいから。じゃあトマトで」と僕は応え、桜井から包みを受け取った。男子三人は袋を覗き込み、包みを指差して賑やかに品定めを始めた。女子二人は売場近くで出来立てを食べてきた、と、その輪に加わらない。すると突然、雨宮が手と手を打ち合わせて、声を上げた。
「やっぱたこ焼き買ってくるっ、平間、手伝って!」
 雨宮は僕を立たせると少し強引に輪から連れ出した。背後に桜井の物問いたげな視線を感じる。

 雨宮と僕はたこ焼きの列に並んだ。僕はチーズトマト鯛焼きの包みを開いて頬張った。雨宮は僕をチラッと見ると浮かない顔をし、目線を逸らした。
「トーコ、本当は鯛焼き食べてないの。ダイエットすんだって。口に出さないけど不安なんじゃないかな……ちょっと元気ないしね。外野がどうこう言うのも違うかなって思うけどさ……」彼女はやりにくそうに息をつくと「あんたのこと、トーコから相談された時、平間かぁーいいんじゃない、頑張んなよとか無責任に言っちゃったから。あんたってなに考えてるかよく分かんないけど、さりげに健史をサポートしてて良いコンビって感じだし、結構いい印象持ってたから。けどトーコと二人でいんの見てたら、あれって思うようになってさ。……あんたあの子のことちゃんと大事にしてる?」
 ああ、やっぱ外から見ても分かるか。しかしとりあえず、ここをどうにかやり過ごさないと。
「僕なりにベストを尽くしてるつもりだけど」
「聞き方変えるわ。トーコに恋してる?」
「答える義務ないよね」
「これは私の勝手な妄想だと思って聞いてほしいんだけどさ」雨宮の目は無遠慮に僕を探る。「平間、トーコの目を健史に向けさせようとしてない?」
 僕は虚をつかれて何度か瞬きした。そういう捉え方もあるのか。
「健史のこと知ってんだ」
「健史がトーコを好きなのはバレバレだから。肝心のトーコはあんた以外、眼中ないけどね」

 たこ焼きの順番が回ってきた。僕らは三舟注文し、雨宮は二つ、僕はひとつそれを持つ。僕と雨宮は行きよりも慎重に歩みを進める。雨宮の動機は僕と話をすることだけじゃなさそうだと不意に気づいて、僕は少し口元を緩めた。
「桜井はいい友達がいるねえ」
 雨宮は怪訝な顔をした。「なにそれ。話そらすつもり?」
「違うよ、ほんとに感心してる」
「……ねえ、もうひとつ妄想があるんだけど」雨宮の口調が慎重さを増す。「平間の目的はさ、もしかして。トーコじゃなくて、たけ……」急に僕が立ち止まったので、雨宮も止まった。僕は雨宮が態勢を整える前に一気に踏み込むと、至近距離から目だけで彼女を見下ろして、薄く微笑んだ。
「雨宮、もう少し気をつけてモノ言った方がいい。桜井にとって僕がどういう存在かわかってるでしょ。……つまり僕はさ、その気になれば桜井のこと、いつでも好きな時に、好きなだけ傷つけられる立ち位置にいるってこと。ね、下手なことして機嫌を損ねない方がベターだって思わない?」
 雨宮の顔が驚愕で歪んだ。両手のたこ焼きが震える。「たこ焼き、落とすよ」僕は親切に指摘してやった。雨宮はきつい顔で僕を睨んできた。両手が塞がっていなければ、掴みかかってきただろう。
「あんた、本命は健史なんだ。じゃあどういうつもりで」
「口に気をつけろって言ってる。健史におかしなこと吹き込んだら……桜井、どうなるかな。手始めにこれ」と、僕は右手の、出来立てのたこ焼きが載った皿を掲げる。「頭からぶっかけるとかどう?今日、桜井おしゃれしてるよね。初めて見るワンピース着てるし。彼氏と友達と夏休みに花火、ってステキな思い出が台無しになっちゃうかも」
「…………」
「雨宮、君が余計なことを言ったりしたりしなけりゃ、僕から彼女になにもしない。それは約束する。ねえせっかくの花火大会なんだから、楽しもうよ。このたこ焼きも、少しでも桜井に食べて欲しいって気持ちなんだろ?いい友達だ、ほんとに」

 雨宮は何か言おうとしたところで、ハッとしたように口を閉じた。僕は一歩下がると振り返り、桜井が歩いてくるのを視界にとらえた。桜井は張り詰めた空気を感じ取ったのか、少し気圧されたように、僕らを交互に伺った。
「なんか、遅いから心配になって。どうしたの?」
 表情を見る限り、話は聞かれていないようだ。良かった。健史のいるこの場所での諍いは避けたい。僕は桜井に向かって、できる限り優しく微笑んだ。
「ごめんね。雨宮から桜井のこと聞いてた。桜井、夏バテでご飯食べれないって?これなら食べれるかもって雨宮、買いに行ったみたい。どう、食べれそう?」
 そして手に持つたこ焼きの皿を彼女に差し出した。後ろで雨宮が息を呑む気配がする。桜井はおずおずと爪楊枝でたこ焼きをひとつ取り、頬張った。きっとお腹が空いていたに違いない。思わずつられて笑ってしまうような、いい笑顔。
「んー美味しい〜。あまちゃん、心配かけてごめんね。それ一個持つよ。行こ、みんな待ってるから」
 と、雨宮に歩み寄ると皿をひとつ受け取り、みんなの方に向かって歩き出した。
 僕は雨宮を軽く振りかえると、桜井の後を追った。雨宮も、この場を衝動のままブチ壊すのは止めた方がいいと考えたようだ。青い顔でゆっくり歩きだした。


◇◇◇


 会場になっている港内の広いスペースは、暗くなるまでにぎっしりと人で溢れかえった。僕らは人ごみの中に埋もれるように立ったまま、横一列に並んで、暗い夜空を見上げている。いまかいまかという期待感で空気の密度はどんどん高くなる。
 僕の左には桜井が、右には健史がいる。桜井の左隣は雨宮だ。

ひゅるるる〜……       ……ドン!ドン!パ、パパ、パララララ……

 開始を告げる花火が立て続けに上がり、空に大輪の花を次々に咲かせ始めると、花火の重い炸裂音と歓声が空気を震動させる。あちこちで拍手があがった。
「わああ、すごい、綺麗……」
 左隣で桜井の嬉しそうな声が聞こえる。僕は右隣の健史を横目で伺った。彼は目を輝かせて、夜空に咲く花を見つめている。
 大きな花火がいくつか。その後は小さい花火が景気よく、立て続けに炸裂したあと、いろんな形を模した花火が上がる。ハート型、輪を二つ重ねた形、スマイルマーク、ミッキー型。あちこちで見交わされる目と嬉しそうな囁き声。桜井は雨宮に顔を寄せて、楽しそうに笑い合っている。

ひゅるひゅるるる〜…………ドォン! パラララ……

 ひときわ見事な大輪の花が夜空いっぱいに広がって、観客の熱気がぐっと上がる。花は鮮やかな赤色からオレンジ色を経て緑色に変化し、煌めき光る粉をまき散らして闇に溶ける。
 健史の「ひゃー、すげえ」という声が聞こえる。暗がりの中できらきら輝く健史の目が僕を捉えた。胸の中で心臓が跳ねた。
「何度見ても、なんかやっぱ、感動するな」
 健史は笑い、その顔に見惚れて、僕もうっとりと微笑んだ。

ひゅるるる〜……       ……ドン!パパ、パラララ……ドン!……ドン!

 次から次へと惜しみなく……闇から生まれて闇へと消える鮮やかな光輪……

 ……明滅する光が僕を回想へと誘う。

 僕と健史は、舞台の袖から、クラスの劇を見守っていた。中学三年の文化祭。僕たちは音響係だった。劇の進行に応じて、棒を打ち合わせたり、馬のいななきや雷の音ををプレイヤーで再生したり。
 リハーサル中だった。劇の進行が止まり、役者の生徒達が舞台上の立ち位置や台詞のタイミングなどを話している間、裏方の照明や音響や舞台効果は、脚本をもて遊びながら、又は声をひそめて話をしながら、再び劇が動き出すのをぼんやり待っている。

 でも僕はそれどころじゃなかった。暗闇の中、健史が体温を感じられるほど近くにいるから。僕は劇を見るフリをしながら、全身全霊で健史の動向を伺っていた。

 小学校の高学年に差し掛かった頃から、自分の気持ちを自覚していた。小さい頃はお互いの家を毎日のように行き来していたのに、中学でサッカー部に入部した健史は忙しくなり、僕も塾に通うようになって、一緒に過ごす時間は激減した。だから、こんなに近くで過ごすのはもの凄く久しぶりだ。

 僕の心臓の音が大きすぎてバレやしないかと恐ろしかった。健史は僕の様子には気づかずに顔を寄せてきて、耳元で昨日観たテレビの感想を囁いた。僕は必死で平静を装っていたものの、嬉しくてはち切れそうだった。きっと真っ赤になっていたに違いない。ああ暗くてよかったと心底思う。懐かしい健史の匂い。彼の声と吐息が僕の鼓膜を震わせ、二人は親密に笑い合う。なんという幸せ。時間よ止まれ。いまこの瞬間に止まれ。
「やっぱタクと話すの楽しいな。なんかさお互いの呼吸が分かってるしさ、話してて、ほんと楽」
「僕も健史と話すの楽しいな」
 僕は顔がにやけ過ぎていることを隠そうと、片手で口を塞いだ。──そして幸せの絶頂で、健史はあの言葉を。口から。放った。

「タクってさ、無意識で安心できるっていうか、なんか空気みたいな感じ」

(なんか 空気 みたいな 感じ)

 言葉はナイフのように……いや、もっと大きくて荒々しい刃物、出刃包丁、ナタ、日本刀……僕の心を一刀両断した。ほとんど物理的な、強烈な痛み。さっきまでの楽しさは嘘のように一瞬でかき消えて、切り離された僕の心は、ぼろ雑巾のようにぐちゃぐちゃに丸まった。そのままかたく小さく固まって二つの石ころになって、どこかに転がって消えてしまいたいと思った。
 健史に悪気はなかったと思う。むしろ褒めるニュアンスで言ったんだろう。空気のように意識はしないけど必要な存在、という意味で。彼が人に悪意を向けるような人間じゃないことは、誰よりも分かってる。それでも傷は思い出すたびに酷く痛んだ。
 言葉は意識の底の深い闇から僕の夢の中へ侵食してきた。夢の健史からぶつけられる言葉に、僕は何度でも傷ついた。その度に血が滲む傷口は、すっかり膿んでしまった。

(空気)

(健史にとって僕は空気)


 僕が好きなひとは
 僕を好きにならない
 ぜったいに

ひゅるひゅるるる〜……       ……ドン!……ドン!……ドン! パラララ……ドン!ドン!………ドン! パラララ……

 花火の共演はラストスパートに差し掛かった。超大輪の花火が次々とあがり、視界一面の空を覆い尽くす。腹に直接ズシンと響く震動が歓声をかき消し、天から降り注ぐ黄金色のシャワー。

 僕は右手で、健史の左手をとって握りしめた。顔を強く空に向け、彼から目を逸らし続ける。健史はびくりとして手を引っ込めようとするけど、僕は強く握りしめたまま離さない。
「タク?おい……」
 戸惑う健史の声。僕は頑なに空に顔を向けたまま、花火の音が大きくて聞こえない、フリをする。
 健史の手。いつも盗み見ることしかできない手。細く見えるけど意外と骨張ってゴツゴツしていて、汗ばんでいる。お互いの体温が鼓動と共に手のひらから行き交うのを感じる。もう一度、彼は手をひっぱった。僕は逃げようとする小動物を捻じ伏せるように力を込める。待てよもう少しだけ頼むから。僕にはこれだけが全てなんだから。

ひゅるひゅるるる〜……       ……ドン!ドン!………ドン! パラララ……

「タク!離せって」
 右肩を叩かれて、僕は手を離した。身体の中を荒れ狂う感情を無理やり押さえつけ、なんとか笑みを顔に取り繕うと、彼に向かって言葉を押し出した。
「そうだった。つい桜井と間違えた。ごめん」
 声が僅かに震える。健史は驚きと混乱で顔を歪ませ、じっと僕の顔を見つめてきた。彼は僕の顔と自分の左手と交互に視線を落とし、手を握ったり開いたりと動かして、必死に起こったことの意味を考えているように見えた。僕は顔を桜井の方に向けた。桜井は目を輝かせて「ねえ今のすごかったね!」と笑った。僕は、桜井に向き合うと条件反射のように口元に刻まれる笑みを既に意識しない。
「うん、綺麗だったね」


 真の絶望は、健史の心が手に入らないことじゃない。

 気づきはじめたことだ。このさきの人生では常に、装わなくてはならないと。

 “普通の”ひとが“普通だ”と意識せずにおこなう些細なことがらに、僕は何度も傷つくだろう。

 誰かに言ってほしい。「わかるよ」と。「その気持ちわかるよ」……


◇◇◇


 花火大会の会場から、人の波が引き潮のように、一斉にひいてゆく。その傍で僕らは、この後のことを相談しようと寄り集まった。
 合流組の滝田と井上は、まだ遊び足りないのか「カラオケ行こっか」「けどこの分だと混んでんじゃね」と話している。
 雨宮は僕と桜井に素早く視線を走らせたが、僕はその視線を遮るように桜井に近づくと、声を張り上げた。
「僕と桜井は別ルートで帰るんで」
 井上は目を丸くすると大声で「うわマジ、平間、学校とキャラちがーう!カレシって感じ」と笑った。桜井は真っ赤になる。雨宮は無表情のまま僕を睨んだ。僕はなだめるように、雨宮に微笑みかけた。
「雨宮、大丈夫だよ。桜井に悪いことなんて起こらない。ちゃんと気をつけるからさ」
「……うん。ほんと、頼むね」
 雨宮は僕の目を覗き込み、深く刻みこむようにそう言った。健史以外の三人は、微妙な空気に不思議そうな顔をする。
 健史はその間、僕の顔をじっと見ていた。聞きたいことがたくさんあるけど、どう言葉にしていいかわからない、そうなんだろ。彼の気持ちは手に取るように分かる。なんせ長い付き合いだ。僕は視線を健史に移した。健史は身をこわばらせた。いつも迷いなく真っ直ぐな彼の目線が、いまは頼りなく揺れている。

「桜井を送ったら帰るから。健史、ちょっと遊んでいったら?夏休みなんだしさ」
 健史は微笑もうとして失敗したように、引きつった表情をうかべた。
「うん。そうする」
 僕は桜井に向き直ると「行こっか」と声をかけた。僕と桜井はみんなに別れを告げると、背を向けて歩き出した。
 僕は桜井の右側に回り込むと、左手で桜井の右手をとった。普段、手を繋ぐとき彼女は左手、僕は右手だった。桜井は不思議そうに僕を見上げたけれど、繋いだ左手に力を込めると頬を染めて微笑み、そのまま目を伏せた。

 健史と雨宮の視線をチリチリと背中に感じる。
 見ろよ、よく見ろ、健史。
 お前が好きな女の子が好きな男を。

 ──傷口がかさぶたになる度に何度もかき壊すと、皮膚に消えない傷のあとが残る。お前の心に僕は傷をつけることができているかな。消えない傷あと……健史……僕のこと……


 僕は右手に残った彼の体温と感触を思い出して、情景と一緒にそっと握りしめた。
 これからずっと、死ぬまで。右手は誰とも繋がない。


(完)

※「乞ひ」(恋)……本来は自分の中になんらかの欠落感を抱えた人間の、欠落状態が埋まるまで落ち着かない不安定な状態をあらわす。

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