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掌編小説「水深」


 鯨が絶滅したとき、サナダは8歳だった。そのとき、特定の関係者以外で鯨の絶滅を知っていたのは8歳のサナダだけだった。また、サナダはその関係者のひとりを知っていた。サナダはその時点で平均的な8歳にしては多くのものを知っていると言えた。
 おまえが3歳のとき、ホエールウォッチングに行ったの覚えてる? と部屋に入ってくるなり広瀬が言った。サナダは覚えていなかった。広瀬は決まって、サナダが自分の部屋で宿題をしているタイミングでやって来ては突っ立って煙草を吸いながらすこしだけ話して、灰が落ちそうになる前にまたでて行った。サナダは宿題を終えるまで母親からゲームを禁じられており、けれど礼儀を知る8歳だったので宿題に取り組む手を止めてからきちんと広瀬のほうをむき、はやくでて行ってくれないかなとおもいながら黙って話を聞いていた。和歌山県でさ、船に乗ってさ、おまえは船酔いしてずっと青い顔して泣いてたけど、とおくにちょっとだけ鯨の背中が見えてさ……、広瀬はいつものように勝手に話しはじめた。背が高い広瀬はいままで一度もサナダの目線にしゃがんでくれることはしなかったので、サナダはいつも首がちょっと痛くなるほど広瀬を見あげていた。鯨は絶滅したよ。広瀬が言った。そこでサナダは広瀬と目があった。だからあのとき、おまえに鯨を見せてやろうとおもって。5年以内に鯨が絶滅するのはもうわかっていたし、おまえは鯨の絵本をよく読んでいたから。広瀬は背をむけて、部屋からでて行った。
 サナダはその時点で鯨の絶滅を知っていたが、ただそれだけだった。
 サナダが13歳のとき、鯨の完全な絶滅が確認されたというニュースが放送された。連日の話題で、新聞にも大きくとりあげられた。そのとき広瀬はやって来なかった。サナダはすっかり平均的な13歳になっていたので、クラスメイトにからかわれるのが嫌でバレないようこっそりつきあっていた恋人と隣町のファーストフード店で待ちあわせてコーラを飲みながら、そんなこともあるんだね、と言いあっただけだった。
 次に広瀬がやって来たとき、サナダは18歳だった。おまえ、声高いね、と広瀬は言った。
 地球探査機の一台が想定寿命期間に入ったから、次のを造るのにえらく時間がかかった。と広瀬は言った。そのひどく説明めいた口調にサナダは驚いた。地球探査機? サナダはほとんどはじめて、広瀬に質問をした。広瀬は煙草を吸っていなかった。
 陸に82台、海に201台、空にも前はあったけど、衛星とか飛行機が飛びはじめてからは増やしてない。
 飛行機の前からあったの? サナダは聞いた。
 あったよ。管理が大変だからって台数規定はあったけど、空の増加をやめて陸のも衛星が補完してくれるようになったから、海にだいぶまわせるようになった。
 広瀬は鎖骨のあたりをぼりぼりと掻いた。俺の担当は海。
 そこで広瀬は煙草をとりだし、サナダの部屋をでて行った。サナダは机の端に積んでいる漫画を読み、それから眠った。翌朝、パソコンで地球探査機を調べてみたが、それらしいものはなにもでてこなかった。代わりに地球探査船「ちきゅう」が検索にヒットした。人類史上はじめてマントルや巨大地震発生域への大深度掘削を可能にしたもの、という説明書きを冒頭だけ読んだ。広瀬が言っていたのはこれのことだろうかとおもい、しかしすぐに違うだろうとおもった。なんにせよ、鯨はもう絶滅していて、世界中はそれを知っていた。
 次に広瀬がやって来たとき、サナダは26歳だった。学生時代から数えて4人目の恋人と3年目の節目を迎える一週間前だった。サナダはコンビニで買ったアイスモナカを持って、海沿いの児童公園のベンチに座っていた。地元からは数キロ南に離れた土地で就職していた。広瀬はやって来るなり、海に面した手すりにもたれて煙草を一本吸い、すぐに吸いきって吸殻を捨て、2本目をとりだした。
 深海にーー、広瀬は煙を吐いた。
 深海になにかいるんだよな。
 あまりに抽象めいていて、サナダは質問するのがちょっと嫌になりそうになったが、礼儀として、なにが、と訊ねた。
 なにかまではわからん。広瀬は言った。たぶん生き物。鯨を絶滅させたのはたぶんそいつ。
 サナダはモナカを半分に割って、広瀬に差しだした。広瀬はちょっとそれを見て、断る代わりに3本目の煙草に火をつけた。
 時代も場所も種も違うが、記録上では絶滅までに計頭の鯨が水深4000メートルのあたりでなにかに呑まれたのを探査機28台が観測してる。マッコウクジラでもそんなに潜水できないから、なにかに引きずりこまれたんだろうって説もある。実際、2020年以降に見つかった鯨は尾ビレがごっそり欠けてたりする。
 広瀬は黙った。サナダも黙った。ただそれは、広瀬は煙草を吸い、サナダはモナカを頬張っていたからで、それぞれの行動理由から発生する沈黙だった。広瀬はあくびをひとつすると、背をむけて去って行った。サナダは広瀬の背中をはじめて見た気がした。追いかけて行っても拒まれない予感があったが、結局そうはしなかった。その1年後、サナダの母が死んだ。母の難病が発覚してから、母とサナダは、冷蔵睡眠医療に申し込むかどうかでよく話しあっていた。現代医学では治療困難な患者を長期の睡眠状態にして現状を維持し、医学の進んだ未来にまた睡眠を解き、そのときの医術によって治療や延命を図ろうというものだった。現時点では余命宣告がされた患者にのみ申し込み可能で、民間に適応されたのはごく最近だった。要は問題の先送りではないかと批判の声も多く、費用も高額だった。サナダと母の話しあいは、話しあいというより延命を望まない母をサナダが説得するという形に終始していた。しかし、母の死因は急性心不全だった。急なことだったので、葬儀は身内だけでひっそりと済ませた。火葬場をでて車に乗りこもうとしたとき、サナダは黒いコートを羽織った痩せすぎの男を視界の隅に見た。雨で視界は悪く、また、男は随分ととおくから安物のビニール傘を手にこちらを見ていた。サナダは母の骨を抱えながら、その男が広瀬である気がした。男は車がうごきだしてもそこに立っていた。車が最初の曲がり角に差し掛かり、男の姿は見えなくなった。
 31歳の夏に、サナダは長年友人だとおもっていた女に一般的な友人間で交わされる以上の感情を自覚し、結婚した。翌年の秋には妻の妊娠がわかった。休日、サナダは身重の妻に代わってスーパーで白菜を手にしようとしていた。そこに広瀬が来た。いつもポケットにつっこんでいるか煙草を吸っているかして塞がっている両手に、それぞれチョコ菓子と財布を持っていた。サナダはさらにいくつかの食材とゴミ箱用のビニール袋を買い、無人レジにむかった。広瀬が並んだ有人レジは混んでおり、サナダとほぼおなじタイミングでスーパーをでた。広瀬は財布と菓子をコートのポケットに突っこんだ。あとは手ぶらだった。広瀬がすこし先を歩き、すぐ後ろをサナダは歩いた。家までには徒歩10分かからなかった。
 鯨が見つかった。
 広瀬が振りむかずに言った。間近の道路を電動の無人タクシーが静かにとおりすぎて行き、その間、広瀬はすこし黙った。むかいから走って来た学生を避けるためにサナダは一歩広瀬側に寄ることで道を譲った。広瀬の耳の後ろに銀色に光る白髪を数本見た。
 現時点の人類が観測できる範囲では、たぶん、最後の一頭。広瀬が言った。深海で、あの生き物と一緒に暮らしてる。5800メートルのところまで浮上してきた姿を確認できた記録がここ5年ほどで2件。たぶんおなじ個体。もっと深くにはそいつ以外に生き残ってる鯨がいるかもしれないけど、わからない。そもそも、酸素を必要としないそいつをなお哺乳類の鯨に分類できるかもわからんが。あの生き物がなんでそいつを食わないのかも。
 サナダはビニール袋を持ち直した。白菜がすこし重かった。
 嫁いでっちゃったのかな。
 広瀬は煙草をとりだした。
 おまえが名前つけていいよ。
 え、とサナダは反射的に口走った。名前。そいつの。広瀬は繰り返した。学名にもなんないけど。
 サナダの思考にいくつかの場面が浮かんだ。膝を折って屈みながら自分の顔を覗きこんで来る、広瀬の顔。広瀬はいまより幾分か若く、黒髪がたっぷりと豊かだった。サナダの視界は足元ごと揺れていた。広瀬の後ろには波の飛沫があった気がした。
 サナダは意図的にゆっくりと瞬いて、そう背丈の変わらなくなった広瀬の煙草を、広瀬の肩越しに見た。
 わかば。
 うん、と広瀬は言った。サナダが右に曲がる道を、広瀬は信号を渡って真っ直ぐ歩いて行った。サナダはそれを見送った。
 しばらくして、妻は子供を産み、サナダは父親になり、また2人目の子供ができ、サナダはすこし出世し、働き、会社の上司や同僚や後輩と飲み、ときどき友人に会い、家に帰って家族と過ごし、生活をした。広瀬はときどきやって来たが、それは、恐らく広瀬だろうとサナダが遠目に視認するだけであって、なにか言葉をやりとりすることはなかった。サナダの長男が大学に進学したころ、広瀬を見ることはぱったりとなくなった。広瀬がやって来なくなり、サナダはもう鯨がどこにいるのかを知りようがなかった。世界ではとうに鯨は絶滅した種とされていて、生き残り発見の報道はどこにもなく、広瀬がもたらした話以上の情報はサナダが知覚できる範囲のどこにもなかった。ただ言えるとすれば、自分が名をつけたかつて鯨であったろう生き物が、海の奥深いところで生きているかもしれない可能性を、サナダは知っている。

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