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スピノザと古代東洋哲学について、なのです

スピノザに触れてみた


たまに、NHKの「100分de名著」という番組を観ている。世に数多ある「名著」を1回25分、全4回に分けて解説してくれる番組で、テキストが発行されているので、番組を見ても、テキストを読んでも(勿論、両方でも)良い。

原著に向き合うのは著しくハードルが高くても、その原著に精通したナビゲーター(解説者)のお話を通じて、何となく、分かった気にさせてくれるのは、なかなかの番組構成だと思う。

で、その「100分de名著」で、スピノザの『エチカ』について取り扱った回があって、以前、テキストを買っていた。解説は哲学者の國分功一郎。その時は、何故か、スピノザについて気になっていて(きっと、新聞記事で読んだとか、何かだろう)、近々、スピノザについて触れることになるだろうという、謎の予感と共に、例によって「積んで」あった。

またぞろシンクロニティ


一方、最近、私を「対話」というキーワードに誘(いざな)ってくれた友人と、しばしば往復書簡のような、ちょっとしたメッセージのやりとりをしていた。

その彼が近頃、「中動態」という概念に興味を持っているという。古代ギリシャ語など、インド・ヨーロッパ語族の古い言語に見られたらしく、能動態でも受動態でもない、つまり、「する」/「される」という概念とは別の態。これについて、「対話」との関連で興味を持ったそうで、着眼点が面白いと思った。

その「中動態」について、國分功一郎がいくつか本を出しているそうで、紹介してもらって、面白そうなので、それらもいつか読んでみたいと思った。

その流れで、「そう言えば、最近、その人がスピノザについて書いたテキストを買ってあったっけ」と、思い出し。

もともと、スピノザの「ス」の字も出なかった、全然関係のないやり取り、ーのはずだったのに。何じゃこのシンクロは?

ーと思いつつ「100分de名著」テキスト、スピノザ『エチカ』をやおら引っ張して読んでみた次第であった。

スピノザの思想と古代東洋哲学の類似


読んでみて驚いたのは、スピノザの、その思想のポイント、ポイントで、古代の東洋哲学(原始仏教)との類似点があったこと。これは、すごい。17世紀オランダの哲学者なのだけど、西洋哲学でこういう視点を持っている人がいたのか、と。

『エチカ』のナビゲーターである國分氏は語る。

「スピノザを頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない・・・」と。

デカルト以降の真理観、つまり、何某かの根拠をエビデンスとして提示可能なものが近代における真理であり、直近の我々はそれに基づいて科学を発展させてきた。だから、我々の思考は、基本的に、真理に対しても、客観的なエビデンスを必要とする考え方をベース(OS)にしている。

だがしかし、國分氏は、スピノザを読む為には、そのベース(OS)の切り替えが、必要だ、と言ふのである。

なるほど。

では、どんな切替えが必要なのか。

「100分de名著」はとても薄いテキストだけれど、原著の大事なエッセンスは、ナビゲーターとなる解説者によって、比較的、品質良く凝縮されている、と思う。

『エチカ』のテキストを通じて、紹介されていたスピノザの考え。そして、その限られた紙面のなかで、複数見つかった東洋哲学(仏教)との類似点。

その辺が、つまりは、切替えポイントなのではないかと。

面白いと思ったので記録しておきたい。

類似その1)真理の体得について

あえて問うが、前もって物を認識していないなら自分がその物を認識して いることを誰が知りえようか。すなわち前もって物について確実でないなら 自分がその物について確実であることを誰が知りえようか。

スピノザ『エチカ』


スピノザは、真理という物は体験・理解するものだと言っていると考える。これは、客観的に口伝可能なものではなく、自身で腑に落ちて体得して初めて「分かり得る」ということ。逆に言えば、本を読んだり、人からモノを聞いたりしただけで、自分で実際に「その境地」を「体験」しなければ、「分かり得ない」ということ。

つまり、仏教で言う「悟り」のようなものだと。西洋哲学は共有知としての哲学を積み上げ、積み上げて行くことで、まだ見ぬ「真理」に至る道筋を構築する、果てしない試みの様なイメージ。

一方、東洋哲学は、どちらかというと既に「真理」は発見済みで、それをわかっちゃった人(釈迦とか)が、どうにか一般人にもそこに至れるようなサジェストを、あれこれとし続けている、そんな違いがあるように思われる。

で、スピノザの観点はどちらかというと、後者(東洋哲学的)なイメージで、この点、とても似ていると思った。

類似その2)神即自然について

存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する […]。言いかえれば〔…〕存在するすべての物は神の能力を——万物の原因である神の能力を一定の仕方で表現する。

スピノザ『エチカ』

スピノザは「神」について触れているけれど、西洋で言うところこの「神」観とはちょっと違っている。超常的な力を持ち、人々を裁く存在ではなく、自然(宇宙とかも含めた)そのものに見立てた。

「神」は自然そのものであり、唯一存在するものであり、それは「無限」であり、(我々を含む)自然に属する全ての存在は「神」の一部である。

ーみたいなことを言っている。

我々の中には神が宿っているというか、神という存在の表現の一形態である、と。

國分はこの神が取り得る様々な形態を「主語」的なものではなく「副詞的」なものという表現も紹介していて、その表現も面白い。

スピノザのこの主張、当時は「無神論」だと見なされて炎上、『エチカ』は発禁となったそう。

だけども、これは、古代仏教の、所謂「凡我一如」っぽい話に近い印象を受けた。


類似その3)「能動と受動」・「善/悪」や「完全/不完全」について

精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神 はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原 因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因に よって決定され、このようにして無限に進む。

スピノザ『エチカ』

スピノザは「自由意志」を否定している。何かに影響を受けずに、自我だけで存在しうる意志というものはなく、必ず、「他」との関係のうえに成り立っている、という趣旨の思想を述べている。 

善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物 でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には 悪しく、聾者には善くも悪しくもない。

スピノザ『エチカ』

善とか悪とか、完全と不完全とか、そう言うことも、それ、単体では概念として存在せず、あくまで「他者」との関係性に立脚して、その性質が顕現するという。

仏教では、すべての現象は、孤立してではなく、相互関係によってのみ成立している。という「縁起の理」という考え方がある。

こんな所も、似ている気がする。

おわりに


と言うわけで、「100分de名著」と國分氏の助力を得て、その一端に触れることの出来た『エチカ』。

原著、いつか当たれるかな。ちょっと自信がないな。でも、西洋にもこういう考えの哲学者がいた、ということは、ちょっとした発見で面白かった。

その前に、國分氏の他の書籍に当たってみようと、クリスマスソングを聴きながら、そう思いました。

哲学。

難しいけど、面白い。

12月半ばを過ぎ、東京もようやく、寒くなって来ました。

皆様、風邪などひかぬ様。ご機嫌よう。

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