藻がけよ。描いて藻がいて、見えてくるものがあるから。(自己の表現を振り返る)
今回は今までの表現や、これからの表現を大きく顧みて考える記事になった。
猫嶋の絵や、何から絵のインスピレーションを得ているかを、今回は備忘録として書いていく。
振り返ったきっかけから
毎日暇なので一日一枚絵でも描くかあ〜やる気出ねえ〜と思いながら、スランプ絵描き向けの動画を見ていた。
……藝大生の方の大変気持ち良い「沢山描け」と、hide channelさんという方のクロッキー帳をみて一気に火がついた。
そうだよな。上手い人はとんでもない量の絵を描いてきている。
彼らに嫉妬するのはその努力が見えていないからだ。陰にとんでもない時間鉛筆を走らせた過去が彼らにはあるというのに。
まだまだ描いている量が足りない
私こそ絵が上手いとか画力が高いなどと言ってもらうことが多いけれど。
そう、それ相応の頭のおかしい狂った量と質の模写を、年単位で繰り返してきた過去がある。
いまは…そうだな。
憧れとか、目標とか、嫉妬とか、そういう己をせき立てる感情は穏やかになっている。
なんならそこそこに描きたいものは描けるこの状況がマンネリの原因なのだろう。
描きたいものを夢中で描き続けた頃は、確かに勝手にグングンと経験値が上がっていったように思うし、悩む暇も無かったように思う。
いまは目標を失ったランナーのような状態だ。
お前が描きたいのはどんな絵だ?
いま描きたい絵は、よくわからない。
ずっと憧れや「私はこういう絵を描きたいんだ!」というイメージが明確だったから、ここまで自分の好みの絵柄を確立してこれたし、割と必要な回り道を挟んでここまで歩んでくる事ができた。
好きな絵柄を全てものにしたいというジャイアニズム、そしてそれを神経質なまでに徹底した「超完璧主義」が、大変大きく貢献していただろうと思う。
対象になりきる。それが私が自分に課した課題だった。
影響を受けてきたものを振り返る
アニメーターの伊藤嘉之さん、平井久司さん、加々美高浩さん、中鶴さん。
キオ式3Dミクモデル、DEINOさんのシーエモデル。
京アニの、西屋太志さんの描いた『リズの青い鳥』の淡い表現。
旧アニメ魔術士オーフェンの、巨匠の彫刻作品のような美しい荘厳さ。
特に、キオ式ミクからの影響は強い。私の作風の方向性を強く自覚させるものだったからだ。
以下に書いていく。
まず、これがキオ式ミクの本人による動画だ。
…そうだ。
私は基本的に、アニメーターの方の絵や3Dに惹かれた。どの角度でも破綻のない、立体的で躍動感のある絵が好きだった。
高校時代、大暮維人さんのエア・ギアの画面の迫力にど肝を抜かれたあの頃から、私はその点は揺らぎがなかった。
大学を鬱で中退した頃、レオナルド・ダ・ヴィンチの実物大素描集に酷く恍惚として見入った。当時最も好きだった巨匠は、ダビデ像の有名な彫刻家、ミケランジェロだった。
後に陰影を巧みに使う、カラバッジョという巨匠にも大きく影響を受ける。
「光が構図そのものを作る」みたいな言葉が大きく刺さる絵画を実際に目にした気持ちだった。
元々萌え絵が好きなオタクだったから、硬派すぎる絵よりはポップで程々にデフォルメが効いた絵柄が好きだった。
暗さや黒を基調とした作風になったのは、スタイリッシュさとは別に、鬱でこの世に絶望した感性が滲んでいるからだ。
それらが合わさった、萌え要素のやや足された、スタイリッシュで立体的で、時にエモーショナルで鬱々とした世界観。それが私の作風となった。
初期VOCALOIDのパッケージでお馴染みのKEIさんの絵も、スタイリッシュでとても好きだったし、いまも変わらずに好きでいる。redjuiceさんの絵も、中高生の時によく模写をしていた。
同時に京アニのような、繊細で美しい、鮮やかなタッチも好きで、作風が複数確立していくという複雑な成長を辿った。
いまも作風は統合されてはおらず、統合する必要もないと思っている。
それぞれの表現でしか出来ない伝え方があるからだ。
今まで辿ってきた全ての影響を、それぞれの自分の絵に確かに感じる事ができる。
……ヴィジュアル面は、そういった流れで形になっていった。
表現の方面はどうだっただろう。
表現の方向性の吸収、確立を振り返る
2017年だったか、2019年だったか、「ただ可愛らしい萌え絵を描いているだけでは、自分の伝えたい事が伝えられない」と悟った。
表面的な愛らしさだけでは、薄っぺらい絵にしかならない。そんな絵しか描けない自分の、人間的薄さに絶望した。
だから、物語性やメッセージ性を色濃く出した作風を、それからはひたすら試し続けた。
色々試すうち、アボガド6さんという風刺画を投稿する絵描きさんが視界に入るようになった。
以下でアボガド6さんの絵が見れる公式サイトだ。
彼女(或いは彼)は画力はお世辞にも高いとは言えない。けれど伝えたい事を明確に伝え、痛みを通して大きなインパクトを残していく。そういったとてつもない表現力が、この方にはある。
彼女の絵は写実的ではないけれど、周囲の環境への動きの干渉(名前は忘れてしまった)を描くのが非常に上手く、画面の中で血肉が通い、そこで息を吸い生きているように人物を動かす。
呼吸の音を、この何も聞こえない画面から聞くことができる。
彼女(彼)は、その長年にわたる活動で培った観察眼とともに、「すべての物事は常に影響を受け合っている」ことをしっかりとわかっているのだ。
さすが社会風刺を巧みに描く観察眼は違う。
私はこの方の存在で、自分の暗闇の表現の方向性が少し明確になった。何より先駆者がいる事で、勇気をもらえたように思う。
まあ私は、彼女(彼)のように広い世界を扱ってはおらず、ひたすらに自己の主観、精神世界を描いているので、厳密には少し違うけれど。
生き苦しみ、そして描き苦しむ私の脳裏には、いつもアボガド6さんの絵がある。
感性をアップデートしていく(新しい関心ごとを、作品へと込めていく)
いまの作風は「過去の自分の関心が形になったもの」だ。
30歳になった自分の、いまの好きなものは、やはり当時とは違う。
いま目にしているものは?いまハマっているものは?
いま心惹かれるものは?
自分のモノにしたい、自分の手で表現したい。そう心急くものは?
…ある。デザイナーズ家具、雑貨、建築だ。そして芸術作品。
バイクなどの機械の剥き出しのメカ、SF宇宙。
自分の手でどうにか表現したい。作品の中に落とし込みたい。
自分の作品を構成する要素として、取り込みたい。
自分の手で、作り上げたい。
ああー。これか。ずっとあったじゃないか。ずっとずっとこの胸に。
どうやら繰り返しのモチーフが好きであるらしかった。
音楽でも、トランスやサカナクションなど、繰り返しの音が心地よく、好んで聴いている。何か共通するものがあるんだろうか。
さらに、「繰り返しの赤色」に特に惹かれることに気づいた。
それでも、その方法をがむしゃらに試したり模索している最中で、まだまだしっくりする形を見つけられていないのだ。
だから、すでに確立している描き方で絵をとりあえず描くけど、もうそれでは満足できないし、描きたいものは大方描き尽くしてしまっているのだ。
藻がこう。もっともっと。
苦しみの渦中に居るほど、その輝きは自分の中に大きな芯を作ってくれる。
寝込みがちな身体は、労わることを忘れずに。
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